三十一日に歳を取った札幌の士女は新年の吉例として除夜の鐘鳴り渡ったから陸続と円山村の札幌神社に参詣し鎮座まします三柱の神に第一の敬礼を捧げる、そは東京なれば恵方詣りに相掌するもので本道の守護神を斎る官幣大社の在す札幌では総ての場合を最も吉方として円山に詣るのだ、例年本社にだけ赴くもの五千人を下らず
(北タイ 大3・1・3)
といった有様で、近世の朝廷における元日の四方拝の意味が、明治中期以降元日における小学校儀式を媒介として、社会に広まったと考えられる。
同様に、札幌神社における神前結婚式の嚆矢は、明治四十二年六月二十八日であった(北海道神宮史 上巻)。この背景には、皇太子嘉仁(のちの大正天皇)の結婚式があった。
明治三十三年四月二十五日の皇室婚嫁令の第七条で、大婚の礼は賢所大前で行う旨が定められ、神前結婚式が創出された。要するにその背景には、欧州王室のキリスト教の結婚式と、それをセレモニーとして国民が奉祝するあり方の影響があった。皇室婚嫁令にもとづいて、皇太子嘉仁と皇太子妃九条節子は同年五月十七日、賢所を拝し玉串を奉じ、告文を奏して、神酒を神前で受ける賢所大前の礼を執り行う。そして儀式は、高官・外国公使の参内朝見の儀、華やかな宮中饗宴の儀へと流れてゆく。しかしことは一人宮中だけの問題ではない。帝室制度調査局で皇室婚嫁令に関わった細川潤次郎は、明治三十一年に『新撰婚礼式』を著し、式場に伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神を奉斎する神前結婚式を一般社会に普及してゆく。近世以来行われてきた結納から里披きまでの「婚礼」は、宗教との結びつきは極めて希薄であった(上島敏昭 神前結婚式の成立)。それに対して、皇太子嘉仁の結婚式を契機として社会に広まる神前結婚式をもって、結婚式と宗教=神道が結びつく「伝統」の創出がなされるのである。
これが大正期になると、神前結婚式が札幌でも一般化し、「郷社三吉神社に於ける神前結婚は極めて時勢の要求に投じ荘厳なると冗費を避くるとに依り今や一般の申込続々たるものあり単り区内のみならず地方よりも申込あり」(北タイ 大7・4・1)といった状況となる。
また大正四年五月には、今井呉服店建築の地鎮祭が執り行われるが、こうした神道儀礼が社会で行われるようになるのも、日露戦後の社会の変動あるいは改良といった事態に照応するのである(北タイ 大4・5・20)。