中央寺には明治二十年代に金毘羅・観音講がみられたが(星野和太郎 北海道寺院沿革史)、三十年代には吉祥・慈徳講がつくられる。慈徳講では三十七年九月十八日に戦死者追吊会を催している。講員は六〇余人であった。
新善光寺には二十年代に蓮友・観音講があり、観音講は三十年代以降も引き続き活動が行われていた。藻岩山の山開きには講員数百人が隊を組み、旗を押し立てて参加していたという。大工職人により境内の聖徳太子堂を奉斎する太子講もつくられている。
経王寺では正信・日朝・題目講などの活動がしられ、成田山新栄寺は三十九年三月に報徳講、西本願寺別院では四十年五月十八日に知恩講が発会していた。