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大挙伝道と教勢の伸張

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 大挙伝道としての集会は明治三十五年にも行われた。そのときは北海(道)聯合伝道会が組織され、大挙伝道の旗を押し立てての集会が六月に五日間、毎日約三〇〇人の聴衆を集めて行われた。この聯合伝道集会は、この後も聖書の友大演説会や青山学院総理本多庸一などを講師としてたびたび開かれた。
 協同して大挙伝道を成功させた各教会は、いずれも教勢を伸ばした。まず、札幌独立基督教会(明33・2札幌基督教会を改称)は、明治三十三年に入ってから「頓に沈滞の気を一掃して青年から老人に至るまで一様に活動の気に満ち」(札幌独立教会沿革)たという。翌三十四年には、入会者が二四人を数え、在札会員は一〇三人となり、日曜日の朝礼拝の出席者平均は四六人に回復した。
 独立教会は明治三十三年の総会の決議で、牧師に関わる規定を改正した。これは、按手礼を受けていなくとも、独立教会が認めた人であれば牧師として任命され、洗礼式と晩餐(聖餐)式の二大典礼を掌ることができるとしたものである。もっとも翌三十四年三月、さらに規則を改正して洗礼と晩餐式を停止し、入会者が信仰告白を行う入会式をもって洗礼式に代えることとした。この改正は、内村鑑三の「洗礼・晩餐廃止論」の影響を受けたものであった。独立教会の主張は「二大典礼が其精神を失ひ形式的に行はれつゝある」との現状認識を根拠としたものであった。同教会は、水による洗礼がなくとも「全能なる唯一の神を信じ、神の子イエスキリストを救主と信じ全身全力を捧げて生涯せんとする者」(北海教報 第三八号)は、神学・信仰箇条の如何を問わず入会を認めることとしたのである。
 独立教会の両三年にわたる改革、特に二大典礼の廃止は、他の教会・教役者からの論評を喚び起こした。それらは一般的な洗礼・聖餐不要論には批判的であったが、独立教会の決定は単立教会であるがための特殊な事情によるものとして理解を示し、独立教会を異端視することには発展しなかった(北海教報 第三八、四〇、四二号)。
 札幌日本基督教会はこの時期、大正二年まで清水久次郎が牧師の任にあったが、この間、明治四十年五月の大火で会堂を焼失し、北一条西六丁目に移り会堂を建築して教会の名称を日本基督北辰教会と改めた。しかし、ここは仮会堂として本格的な会堂建築を後日に期した。大正元年には、教会の実人員である現住陪餐会員が一七六人、年間の受洗者四〇人、日曜日朝の礼拝出席者一二八人を数えるまでに成長した。
 札幌美以教会は明治三十五年四月、日本年会で「札幌教会の本年は其歴史中特筆すべき時にして洗受(ママ)者の数は五十五人なり教会の各事業は何れも是までより一層好景況なり(中略)明年全く自給するに至らん」(美以教会第十九回日本年会記録)と報告された。ところが翌三十六年四月、近隣よりの延焼で会堂が焼失した。このために新会堂は、札幌軟石による本骨石造建築とすることとなり、翌年「川畔の尖塔」と愛称されたロマネスク調の会堂を創成川沿いに完成させ、三十八年一月献堂式を挙げた。美以教会は、ほかに三十三年から山鼻で集会を開いていたが、やがてこれが講義所と呼ばれるようになり、四十四年、正式に山鼻講義所として開所式を挙げた。なお、札幌美以教会は四十年にメソヂスト教会三派が合同してからは、日本メソヂスト札幌教会と称した。

写真-8 美以教会堂(現日本キリスト教団札幌教会,北1東1)

 札幌聖公会は明治三十四年五月、「当教会は目下増々好都合にして安息日朝の礼拝式集会は凡そ六十名内外あり」(北海之光 第九四号)となっており、この年「本年のクリスマスは聖公会設立以来未だ曽てなき大盛会なりしと云」(北海教報 第五七号)う盛会であった。翌三十五年十月には会堂の建増しを完成させた。
 札幌組合基督教会は大挙伝道の年、「七月の頃より諸集会頓に増加せり蓋し大挙伝道の結果ならむ」(札幌組合基督教会略史)と観測されているが、事実、前年度八七人の会員は明治三十四年度一〇六人、翌三十五年度は一三六人に増加した。創立一〇周年を迎えた三十九年、紀念会の来賓海老名弾正は、同教会成長の理由を、札幌の風土、一人の牧師(田中兎毛)の長期間の牧会、宣教師の協力にあったと指摘した。