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祭典区の増加と聯合公区への移行

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 札幌神社の御輿渡御と祭典に関わる組織が祭典区であり、祭典区のうち一区が明治三十三年より年番をつとめるようになり、その他の祭典区は山車、余興などで祭を盛り上げることとなっていた。祭典区は大正九年までで一二区で構成されていたが、都市部の拡大と人口の増大により祭典区の増区がはかられていく。すなわち、大正九年に東北の九区から分離して苗穂の第一三区ができ、十年には山鼻の第一四区、白石の第一五区が設置された。その後、昭和四年に桑園の第一六区、四年には第一四区から南八条以南を分離して第一七区が設置となったのである。
 祭典区の年番に当たると財政負担が大きくなったが、たとえば昭和五年の年番となる第五区では、「五年間年番を延期し年々費用を蓄積」することを申し出て延期が認められていた(北タイ 昭4・4・11)。第五区は薄野が中心であったが、遊郭移転後の地域経済の沈滞がこの延期には反映しているように思われる。
 祭典区は十五年三月に札幌市が公区及び聯合公区を設定したことにより、これまでの祭典区の地域割はいったん廃止となり聯合公区を単位とした祭典区に改編される。新設の公区・聯合公区とは、「町内会の再編成であり従来、祭典区に編成されてゐたものを合理的に廃合、更にこれを統制する聯合会を組織」するものであったが(北タイ 昭15・2・6)、祭典区の役割を十六年からは聯合公区が担当することになった。そもそも聯合公区の地域割は基本的には祭典区をもとにしており、初の聯合公区区域設定の説明会は十五年一月二十三日の札幌神社祭典区委員会にて行われていた(札幌市事務報告 昭15)。中心部では区域の再編がなされていたが、創設された聯合公区は以下の一六聯合公区である(括弧内は戦後に継承された祭典区)。
山鼻南部(一七)、山鼻北部(一四)、西部(二)、西創成(六)、豊水(四)、東(七)、本府(一)、中部西(三)、桑園(一六)、中央(一〇)、東北(九)、鉄北西部(一一)、鉄北東部(一二)、苗穂(一三)、豊平(八)、白石(一五)

 十六年四月には円山町札幌市に合併したことにより円山(一八)、藻岩(一九)の二聯合公区が新設となる。そして十七年四月頃に鉄北西部を割いて幌北聯合公区(五)が設置となり、合計で一九聯合公区となる。幌北地区はもと第一一区の五分区を形成していたが、十五年五月に五分区の桑園(第一六区)への移管問題から紛議が生じ六、七分区とともに第一一区より分離し(北タイ 昭15・5・21、29)、独自の祭典組織を作っていた。これがもとで幌北聯合公区も設置されたようである。
 新たに制定された札幌敬神講社の規約には、講員及び区域について「札幌公区員ヲ講員トシ其ノ祭典区域ハ聯合公区ノ区域ニ拠ル」としており、評議員は各聯合公区から三人ずつとなっており、聯合公区長と副聯合公区長、教化部長ないし社会部長が就任することになっていた(北海道神宮史 上巻)。