しかしこの時期には、同時にキリスト教界が対応を迫られる政府の思想統制施策、なかでも神社問題が起こってくる。まず、関東大震災後の大正十二年(一九二三)十一月、政府は社会不安や国民の価値観の多様化、特に民主主義への傾斜に対して、「国民精神作興ニ関スル詔書」を発し、「国民精神」の引締めを図った。キリスト教界でも大震災を天よりの警告と受け止め、「精神作興」に呼応する決議などがなされた。翌十三年二月、清浦奎吾首相は神道・仏教・キリスト教の代表者を首相官邸に招き、精神作興と思想善導について懇談した。この「三教懇談」後、日本基督教聯盟は全国基督教教化運動を起こし、札幌でもプロテスタント諸教会が加盟する札幌基督教聯盟が主導して、精神作興詔書に呼応する特別伝道を行う「申合せ」を決議した。翌十四年四月には、中央から特派された講師を迎え、特別講演会を開催した。しかし、独立教会は定期総会で教化運動への不参加を議決し、市内教会挙げての運動にならなかったためか、参加者一〇〇人ほどの小規模の集会となった。
昭和二年になると、明治天皇の誕生を記念する明治節が施行され、新年、紀元節、天長節とともに四大節とされ、学校での天皇関連の行事や神道行事の執行が強化された。翌三年十二月の第二八回通常北海道会では、札幌市立高等女学校の女教師(カトリック教徒)が大嘗祭に神社の玉垣外で参拝したとして札幌市会での問題になっているとの論議がなされた。これは事実ではなかったようだが、このときの北海道会における質疑では関連することとして、キリスト教主義の北星・藤両女学校での「三大節奉拝」について質問がなされ、北海道庁は普通の女学校の扱いと同じだが、「私立の学校については特に充分監督する」と答弁した(北海道議会史 第三巻)。私立学校、特にキリスト教主義学校の三大節遵守が疑問視されたわけで、質問はこれらの学校への監視の強化を促すものであった。
神社参拝が国民の思想、なかでもクリスチャンの社会的態度決定に影響を及ぼすと考えた札幌日本基督教会牧師小野村林蔵は、すでに大正十四年、『神社に対する疑義』というパンフレットを出版していた。政府が奨励する祖先への尊崇と神社参拝に対し、「信仰上、思想上、幾多の疑義を伴う事件であって、時には真理が無視せられ、正義が蹂躙せられつつある」と批判した。やがて神社参拝強要は、現実のものとなってくる。特に昭和二年の宗教法案、四年の宗教団体法案の審議の中で、諸宗教と神社との関係が問題となり、政府の神社制度調査会は翌五年、「神社は宗教に非ず」とする見解を出した。これに対し、日本基督教聯盟が中心となって、神社の非宗教化ないし神社への参拝を強制しないことを求める「神社問題ニ関スル進言」を行った。札幌基督教聯盟もこれに名を連ねた。一方、政府は法案審議の中で、神社参拝の拒否は国民の義務に反するものとして取締りを表明した。事実昭和七年、上智大学生の靖国神社参拝欠席が問題となり、同校配属将校の引上げに発展するなど、神社参拝を巡る問題がカトリックの経営する学校で頻発した。このためカトリック東京大司教は、学生や児童の神社参拝が「愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」という文部省からの見解を得て、関係学校の学生や児童の参拝を行わせた。政府はキリスト教会へも神社参拝を強制し、多くの教会がこれに従ったが、同時に日本の教会は朝鮮などの教会に対し、神社参拝を強要する立場をとるに至った。