先の三度の宗教法案・宗教団体法案に反対したキリスト教界も、キリスト教が国家に公認される宗教となることを評価して、四度目のこの法案に対しては反対運動が起きなかった。同法の施行を控えてキリスト教各派とも、それぞれ教団認可を申請する準備に入った。しかし十五年六月、文部省宗教局長が教団設立認可基準を教会数五〇以上、信徒数五〇〇〇以上と表明し、外国ミッションからの独立、外国組織からの分離を意味する自治権の確立などを要件として示したことから、特に小教派の多いプロテスタントは、認可へ向けての対応を迫られた。しかも文部省の意図は、多数の教団を認めるのではなく、一教団となるための教会合同を「慫慂」(戦時下のキリスト教運動 1)したといわれ、各派とも急速に合同へ傾斜した。同年十月に東京で開催された「皇紀二千六百年奉祝基督教信徒大会」には二万人が集まったが、このときに教会合同期成の宣言が行われて合同の機運を加速した。
こうして、プロテスタントの長い間の願望であった教会合同は、戦時下の国家統制を目的とした宗教団体法の施行を契機として実現し、昭和十六年六月、日本基督教団が創立総会を開催、プロテスタントの大半を集めて成立した。日本基督教団は、当初完全な合同ではなく、各教派の伝統を尊重して一一の部に分かれていたが、翌年部制を解消した。
結局、キリスト教はプロテスタントの日本基督教団とカトリックの天主公教教団の二教団しか認可されなかった。日本聖公会、セブンスデー・アドベンチスト教会(第七日基督再臨教会)、ハリストス正教会などは教団としての認可が得られず、単立の教会あるいは宗教結社として認可された。
札幌市内のプロテスタント教会のうち、メソヂスト教会では合同は特に異論はなかったようであるが、日本基督教会の小野村林蔵は長老主義の立場から、教会観や信条の違いを問題として合同に反対であり、組合教会の椿真六は消極的であったことが知られている。しかし、いずれの立場も合同の大勢を覆すことにならず、自派内での歩調を他の教会とともに整えて同教団に加わった。同教団の北海道・樺太の地方組織である北海教区は八月に創立教区会を札幌で開催し、小野村林蔵が教区長となった。合同に伴って教会名が変更となり、札幌の教会は次のとおりとなった〔( )内は旧教派名〕。
札幌北一条教会(日本基督教会) 札幌教会(日本メソヂスト教会)
札幌北光教会(日本組合基督教会) 札幌山鼻教会(福音ルーテル教会)
札幌新生教会(日本聖教会) 札幌豊水教会(救世軍)
円山教会(日本基督教会)
写真-9 日本基督教団北海教区創立教区会(昭16.8)
一方、天主公教教団(カトリック教会)は、札幌北一条教会、札幌北十一条教会、札幌南十条教会(山鼻天主公教会)、円山教会の四教会が認可を受けた。
しかし、日本聖公会は「日本聖公教団」の認可を得られず、合同しないまま組織を解消し、一部は個別に日本基督教団に加入し、他は単立教会となった。札幌聖公会は当初、札幌聖公教会と称していたが、単立を解消し日本基督教団へ加入後は札幌北八条教会の名称となっている。単立教会は、ほかにセブンスデーの札幌第七日基督再臨教会、札幌独立教会、札幌正教会があり、それぞれ認可を受けた。いずれも日本基督教団、天主公教教団とは教理、組織、職制、儀式を異にする独自なものであるという主張が文部省などに認められた結果である。特に独立教会は、洗礼・聖餐の二大礼典を行って来なかったこと、キリスト再臨信仰や信条問題で独自の見解を持っていることから、日本基督教団とは一致できないとして、合同を勧める文部省などと幾度ともない交渉を重ねた結果、単立教会として認可を得た。認可の期限は宗教団体法施行後、満二年以内であったが、その期限である昭和十七年三月三十一日付で同教会が認可となった。但し独立教会の名称では認められず、札幌大通基督教会と変わった。