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政府案

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 第四二議会対策を迫られた政府は、内務省が調査していた北海道への市制施行を法案化することにした。男子普通選挙を要求する野党主張を退け、選挙権の漸進的拡張の立場から条文の改正を行う中で、北海道市制については、一七七条を「北海道ノ市ニ関シ、本法ニ依リ難キ事項ニ付テハ、勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為スコトヲ得」とし、附則で北海道、沖縄県のことは特に触れないものとした。文中の勅令が前述の五条からなる案なのであろう。このように内務省案がまとまる過程で、一七七条を全文削除し、この条文を一八〇条二項に置くよう考えたこともあったらしい。
 内務大臣が、この改正案をもって閣議を請うたのは大正八年十二月十五日で、その理由を次のように述べている。
 現行市制ハ町村制ヲ施行セサル地域ニ之ヲ施行セサルノ主義ナレトモ、北海道ニ於テハ未タ町村制ヲ施行スルノ時機ニ達セスト雖、其ノ区ハ府県ノ市ニ比シ諸般ノ状況ハ敢テ遜色アルヲ認メス。依テ町村制ヲ施行セサル地域ニモ市制ヲ施行スルノ必要アリ。
 又沖縄県ノ区及町村ニ市制町村制施行ノ義、大正七年三月衆議院ヨリ建議アリ。慎重ニ調査セシ処、其ノ現状市制及町村制ヲ施行シ得ルノ程度ニ発達セリト認ムルヲ以テ、町村制ヲ施行セサル地域ヨリ沖縄県ヲ削除スルノ必要アリ。
(公文雑纂 大9 巻一七)

 この件に関する閣議は、翌九年一月十九日に開かれ、「相当ノ儀ト思考ス。依テ請議ノ通、閣議決定」し、法律案の帝国議会提出につき天皇裁可を得たのは一月二十四日であった(同前)。こうして北海道の区に市制を施行する政府案の準備は整ったが、前述の通り議会解散に打って出たため、これを議会に提出するに至らなかった。よって四二議会は憲政会と政府の二案を反古とし、札幌市制を流産させたのである。
 道内に帝国議会や政府の動きが伝わり、大正九年度中に市制施行が実施するものと信じる人もいたようで、道会の質疑はそれを前提としたほどである。それだけ期待が大きかったといえよう。
 議会解散による衆議院議員の総選挙は、大正九年(一九二〇)五月十日行われ、与党政友会の圧勝となった。前議会における与野党伯仲状況は一変し、憲政会は一一〇議席を占めるにすぎない中で、第四三回帝国議会が七月一日開院式を迎え、大口喜六ら国民党と、武富時敏憲政会からそれぞれ市制中改正法律案が提出されたが、いずれにも第一七七条の削除は含まれていない。これは両党が要求する普選実現のため共同歩調が必要で、前議会における提出法案をもとに共通条項の取捨選択がなされ、北海道市制問題は先送りされたものと思われる。なお政府は七月二十七日付で「市制町村制ニ付テハ、次期ノ帝国議会ニ改正案提出ノ見込ナリ」(帝国議会衆議院議事速記録 第四三回)と答弁書を出していたから、札幌市制は今議会で議論されることはなかった。