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市役所の機構

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 高岡市長のもとで、大正十二年九月処務規程が定まり、市役所機構はまず七課制で始まった(表3―ア)。区役所との違いをみると、庶務課に社会係を新設したのが目新しい。賑恤救済、感化事業から公設市場、職業紹介、住宅組合市営住宅、保導委員まで、新しい時代の要請に応えようとしたものである。教育課は大正七年に勧業課を廃して設けられていたものを引継ぎ、衛生課は区役所の庶務課衛生係の独立で、土木課には二係がまずでき、十三年都市計画係が増置された。これが高岡市政の基本的な執行体制であるが、在任中に処務規程の小改正があり、国勢調査年には臨時調査課が設けられたりした。

表-3 市役所の機構

 橋本市長が就任すると、昭和三年四月機構改正がなされ(表3―イ)、「日ヲ逐フテ繁劇多端ヲ加フル事務ノ処理進捗」を図ることにしたが、それは「市会ノ意ノ存ル所ヲ深ク考慮」(札幌市事務報告 昭3)した結果という。改正の主な点は、まず秘書係を庶務課から分離して一課とし、市政全般にわたる事務、事業、会計の監査を統一し、事務の連絡にあたるとともに、人事機密及び文書管理をも担当することになった。また庶務課から社会係も分離し社会課とし、年とともに業務が増大する社会事業の推進にあたり、勧業、統計係もこの課の所管となった。さらに経理課を廃して税務係を独立させて歳入など税務に専念させることとし、財政係を庶務課に属させて、予算の編成と執行経理を一課に統合し、あわせて土木課など各課でなされていた工事の請負、物品購入、入札契約、検収を財政係に移し、情弊不正の防止を図ろうとした。なおこの大改正の前年、電車買収にともなって外局として電気局が設置されている(昭和十八年交通事業所と改称)。
 その後橋本市長在任中さらに処務規程の改正がなされた。五年教育課に教育係、社会教育係の二係が置かれ、九年水道部が外局として開庁し、十年には社会課から経済課が分離して、商工、農務、統計の三係が属し、観光係の増置が取り沙汰されたが実現しなかった。またこの年、税務課に賦課、徴収の二係ができ、各主任を定めて事務の改善と能率の増進を図ろうとした。
 三沢市長が就任すると、「特ニ力ヲ事務ノ刷新改善ニ致シ、鋭意其ノ実現ニ腐心」(札幌市事務報告 昭12)したという。着任の年、庶務課に警備係を設け警備事務と防空施設や訓練を担当し、出納課を会計課と改称したが、大改正は十三年四月になってから行った。
 すなわち、第一に外局としての水道部を廃止して水道課とし、事務、技術の二係とした。第二は庶務課に財産係を新設して市有財産の管理処分、積立金穀、公会堂、不動産取得借入、基本財産に関することを扱い、財務係は従来庶務係で担当していた予算編成、決算、市債をはじめ工事請負、物件労力の供給、動産の借入などが業務となった。第三は秘書課業務を変更し、事務の連絡統一、監査を庶務課に移し、新たに事務の改善、吏員の福利を加えた。第四は教育課に社寺宗教、史跡名勝天然記念物の業務を移し、第五は経済課農務係の産業組合業務を商工係に移し、統計係に国家総動員法の常務を管掌させ、第六として兵籍課を戸籍兵事課と改称した。このあと七月になって、社会、衛生の二課を統合して厚生課に改め、社会、衛生の二係とした(表3―ウ)。
 このあと戦時下の社会事情の変化にともない、三沢市政はたびたびの機構改正を繰り返した。主な点を次にあげておく。十五年公区係を庶務課に新設し、大政翼賛運動の下部組織としての公区運営を主管し、体育係を教育課に置いて体力検定、健民育成にあたり、清掃係を厚生課に設け、汚物処理、道路散水などを分掌、のちにこれが課として独立、さらに物資係を経済課に新設して市民の生活必需品の統制配給を専務とした。十六年には財務課独立、選挙係新設、十七年は市民課を特設し行政下部組織(公区)と防空、物資配給の一元化を図り、厚生課に軍人援護係を置いたほか、非常時行政事務の簡素化方針にもとづき係の統廃合を進め、十九年には一〇課三四係制となり(表3―エ)、三沢市長退任直前に勤労動員と国民義勇隊業務を主管する動員課を新設して敗戦となった。めまぐるしいばかりの機構改正が、戦時非常体制の激しい移り変わりを物語っているといえよう。