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札幌市への編入運動

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 明治四十三年(一九一〇)四月一日に豊平町藻岩村白石村札幌村の一部が札幌区に編入されたが、その後も諸町村に都市化が押し寄せ、「札幌市民」が増加するにしたがい、住宅地化された区域を農村部と分離して札幌市へ編入する運動がなされていくようになる。特に札幌区が大正十一年よりの市制施行が決定すると、豊平町大字月寒村では大正十年三月八日、大字平岸村では三月十三日にそれぞれ村民大会を開催して、両村の札幌市への編入を求めていた(北タイ 大10・3・14、15)。また、十一年十一月に豊平川以東の発展を目的に結成された札幌市豊平白石自治協会では、豊平町及び白石村札幌市への編入運動を積極的に展開していた。
 札幌村と札幌区は、北一二条以北を創成川をもって境界(札幌村は創成川以東、札幌区は以西)としていたが、創成川の近辺に居住する札幌村民は同地区を札幌区に編入することを希望し、有志が十年二月に札幌区に陳情を行っていた(北タイ 大10・2・4)。これを受けて札幌区会でも、「札幌村ノ一部ヲ札幌区ニ編入スヘシ」という建議案が出されていた。
殊ニ接続地トシテ住民ハ全ク札幌区民ノ如キ感ヲ抱キ居ルノミナラス、諸般ノ設備ニテ相共通スルモノ近来漸ク多キヲ加フルノ傾向アリ。之レヲ指導誘掖(ゆうえき)スルハ隣保ノ関係ナカラ寧ロ百尺竿頭一歩ヲ進メテ之レヲ札幌区ニ編入スルヲ幾多ノ便宜ト思考セラル。(略)札幌村ハ僅カニ元村町ノ一部ヲ編入シタルニ止マリ自余長ク閑却サレアリテ、今ヤ住民ノ希望頗ル熱烈ナルモノアルヤニ聞知セリ。即チ本案ヲ建議スル所以ナリ。
(大正十年区会議事録)

 この建議案は、「経画調査会ノ調査ヲ待ツコト」として否決されたが、これとは別に鉄北の第一一区で組織されていた自彊会(じきようかい)でも、「鉄北の発展上札幌村を区編するに関し本会は極力之れに後援する事」を決議しており(北タイ 大10・3・12)、創成川両岸の住民によって編入運動が推進されることになる。それだけ両地区の関係は深くなっていたのである。続いて十一年一月二十九日の区会でも、
同シ鉄北ニ於テモ西部〔創成川以西〕ハ已ニ北二十四条迄アルニ、東部ハ僅カ川一重ヲ違フ為メ十二条ヲ以テ札幌村ニ隣スルガ如キハ当区ノ都市体面上大ニ不体裁ナル已ナラス通信、行政上ニ於テモ大ナル不便ヲ感ジ、其他種々ナル点ニ於テモ市民ノ不利ヲ常ニ痛切ニ感シツヽアリ。以来〔札幌村の〕当部ハ急速ノ発達ヲ為シ家屋ノ建設セラルヽモノ年ト共ニ多キヲ加へ隣接ノ区部ト外面上ハ何等異ル所ナキハ有識者ノ等ク認ムル所タリ。且部落在住者ハ一日モ早ク区ニ編入セラレ札幌区住民タラン事ヲ日夕切望シツヽアルハ万人ノ認テ以テ事実トスル所ナリ。

との理由で、札幌区の市制施行以前に編入するとの建議案が出され、今回は可決採択されていた(大正十一年区会関係書類)。同時に鉄北の住民一五一人からも、札幌区への編入を求める陳情書が区へ出されていた(札幌札幌市境界変更関係書類)。
 さらに、昭和二年五月二十八日に創設された鉄北の第一二区発展期成会でも、札幌村の一部を市に編入することをも活動目標としていた(樽新 昭2・5・30)。第一二区の後背地である創成川流域の新川添が、札幌村から札幌市へ編入されることによって第一二区の発展も見込まれるというものであった。このように札幌村、豊平町の一部住民、あわせて隣接する市(区)内地区の住民からも札幌市への編入運動がさかんに起こされていたのである。