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円山町の札幌市合併

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 藻岩村(昭13・4より円山町)は、札幌市に近接しているだけに大字円山村を中心にして宅地化の波が押し寄せるのが最も早かった。たとえば円山村の戸数・人口及び市街地の連担戸数・戸口の推移をみると、表14のようになっており、人口は毎年一〇〇〇人規模で増え続けていた。連担戸数、戸口は円山の市街地としての発展を示すものであり、円山村の人口増加はすべて市街地に集中していたといえるのである。
表-14 円山村の戸数・人口及び市街地の連担戸数・戸口
戸数連担戸数人口連担戸口
大11392戸2,035人
 125502,833
 136293383,1581,623
 148295294,1932,445
 151,0287955,4193,403
昭 21,2159836,3484,769
  31,4571,0167,6944,964
藻岩村勢一班』,『北海道庁統計書』より作成。

 藻岩村では住宅の増加に対応し、さらには新たな宅地の造成をめざし、大正十一年から円山地区の道路網整備事業が推進されていた。この事業計画は、東西に走る道路は札幌市の既存道路に合わせ南北は五五間、六〇間間隔で設定されており、札幌市と同じ碁盤の目状の施工であった。事業は昭和二年に完成し、北一条から南七条は全域、北一条から北五条は当時の札樽国道以東の地区に市街区画が出来あがり、南北の条は札幌市に合わせて呼称されるようになった(丁目は札幌側から一丁目とする。円山百年史)。この結果、円山町札幌市との市街区画は接続することになったのであり、両者はまったく一体化した〝地続き〟の町並みとなり、住宅地化の促進をもたらすこととなると同時に、将来的な札幌との合併論議を惹起することになるのである。この道路網整備事業は、住宅の誘致、宅地分譲化が一方では目的にされていたので、大正十四年五月に土地所有者が中心となって円山振興会も組織されて、住宅地の宣伝、貸借地の斡旋などにもつとめられるようになっていた。

写真-4 札幌市と〝地続き〟となった藻岩村の円山市街地(大正15年頃)

 また、旭ヶ丘では大正十二年に、在郷軍人分会が所有していた火薬庫跡地二万四七九坪を旭ヶ丘住宅地として五四区画に造成し、十三年から借地者を募集した。これが契機となって周辺には住宅も増加し、旭ヶ丘は住宅地として発展をみるようになった。宮の森では昭和三年に、札幌神社正門前が円山文化住宅地として分譲が開始されていくようになる。この頃、伏見でも大正園が山鼻花園街住宅地を分譲している。
 新住民の増加は藻岩村の社会構成も大きく変えていく。たとえば昭和二年と十一年の職業別戸数を比較すると、公務・自由業は四二三戸から一二一九戸へ、商業は二二〇戸から四九五戸へ、工業は一五八戸から二六五戸へ、農業は三六四戸から三六八戸へとなっており(藻岩村勢一班)、農業が変わっていないのに対して公務・自由業、商業、工業は大幅に伸びており、特に官公吏、会社員で占める公務・自由業が三倍ほどとなっている。これも円山が札幌市に通勤するサラリーマンのベッドタウン化していたことを示すものであった。そうなると、勢い彼ら新住民の意向が村政にも大きく反映するようになり、札幌市との合併を強く推進する声ともなっていく。特に藻岩村円山町は財政不足で都市基盤事業が停滞していただけに、〝札幌市並み〟を求める新住民は積極的に合併論を主張し、こうした声が札幌市への合併を導いていくことになるのであった。
 円山町札幌市との合併は、昭和十六年四月一日に実施された。この合併で低迷していた札幌市の人口も円山町の一万六二三九人を加えて二二万となり、市の面積も一挙に二倍半の七万六二五四平方キロメートルとなって、都市発展の基盤も獲得することになったのである。この合併につき三沢寛一市長は、「之が契機となって隣接町村の併合の機運も次第に開けて来ていよいよ大札幌の実現は遠くないと予想せられます」と述べ(北タイ 昭16・3・31)、「大札幌の実現」の契機ととらえ、さらに併合を推進する決意を語っていた。ただその後、太平洋戦争に入ったので「大札幌の実現」は戦後に持ちこされることになる。