手稲村は上手稲村、下手稲村、山口村の三大字から成り大正十年九月三日に開村五〇周年記念式が挙げられた。この時期の手稲村は、大正期は農業生産力が安定していたが、昭和期に入って凶作などにより生産額は落ち込み停滞を余儀なくされていたが、一方では軽川市街周辺の宅地開発、そして手稲鉱山の再開発によって大きく変わり発展をみせてきていた。
軽川は村の中心部であり、役場や停車場が所在し、北海道造林会社、前田農場、極東煉乳会社、日本石油製油所、陸軍無線電信所などが設けられており、大正十一年十月二十九日には軽石軌道も営業を開始しており、軽川は市街地としても発展を続けていた。大正十二年の軽川市街の連担戸数は二二八戸で、人口は一〇七八人に達していた。十三年には各種集会、興行に利用された軽川倶楽部も作られている。十五年十月に札樽国道の改良と新線の設定を控え、市街地発展を目的とした百数十人の地主により軽川地主会が組織され(北タイ 大15・10・7)、昭和三年には北海道造林会社が苗圃を宅地造成し、緑ヶ丘住宅地として一八〇戸分の宅地分譲を開始していた。軽川は手稲山の登山、スキー、原野の鈴蘭(リリー)、石狩平原の雄大な眺望、光風館の温泉などに恵まれた田園都市として注目されるようになっていたのである。こうした軽川の市街地の発展は続き、十五年には三六一戸、一八〇五人となっており、手稲村の村勢伸展の著しい原動力となっていたが、それとともに村勢伸展には手稲鉱山の躍進も大きかった。
手稲鉱山は昭和七年に藤田鉱業に委託経営され、十年には三菱鉱業へ譲渡となり飛躍的に発展していった。十年の従業員数は二百数十人であったものが、十五年には二〇〇〇人に膨らみ、金山には鉱山施設の他に郵便局、特別教授場、巡査派出所などの施設や飲食店、料理店をもつ鉱山町が出現していった(浅田政広 手稲鉱山について 札幌の歴史29号)。十五年の手稲鉱山の市街地は連担戸数一三二三戸、六九三二人に及んでおり、諸町村の市街地の中でも屈指の規模であった。人口をみても村人口の半数近くは、手稲鉱山に関係をもっていたといえそうである。手稲鉱山の発展の結果、手稲村の人口も六年まで四〇〇〇人台であったものが七年以降は増加をみせるようになり、特に十三年から十五年にかけては毎年二〇〇〇人余りという急増ぶりで、人口も一万人を突破していったのである。
手稲村は昭和九年に札樽国道の改良工事が完成し、札幌・小樽間の省営バスも運行開始され、工事に合わせて軽川市街の道路も拡幅されていき市街地の整備も進められた。かつてヒュッテ型の駅舎でなじまれた手稲駅も九年二月二十日に落成式が挙げられている。また、手稲山を道立公園とする期成同盟会も四月十四日に組織されており、この九年頃を境に村勢が大きな弾みをもっていくようになる。