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円山町の札幌市への合併

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 十五年四月に至り、札幌市、円山町の双方で合併に向けての準備がなされるようになった。札幌市では新設中学校の敷地を円山町内に求めており、また上水道の浄水池、円山公園、運動場など市の施設も町内に所在することから、都市事業の上からも併合が必要とされ、皇紀二六〇〇年記念事業として併合計画を立案していた。円山町の方でも、①札幌市内に通勤・通学する町民が多くなって札幌市への合併を望む声が強いこと。②町民負担の税金はこれまで札幌市に比べ低廉であったのが、税制の改正によりほぼ同額になったこと。③窮乏した町財政では水道、下水道などの都市施設の整備が困難であったことなどにより、町民の福利増進と地域の発展を勘案して合併案を検討する方向に傾いていた。町議会には四月八日に、「札幌市ト本町トノ合併ニ関シ町長ノ諮問ニ応ジ、又調査ヲ為ス」九人の市町合併臨時委員会が設置されることになり(町会関係書類)、四月十七日に札幌市臨時市域変更調査委員との第一回目の協議がもたれて以来、その後数回に及ぶ合併条件の協議を重ねた結果、十一月二十八日の合同協議で一七項の条件につき最終的な合意をみることになった。これを受けて、十二月十三日に飯田町長から正式に議会に対して合併につき諮問がなされた。飯田町長は合併によって水道、下水道、電車、橋梁、学校などの施設が整備されて町民の福利増進がなること、町の発展が見込めること、税負担が軽減化することなどを挙げ、最後に「刻下国家ノ大方針タル新体制ニ則リ」、今回の歴史的決定に満場一致での賛成を求めた。この日に札幌市と共に議会にて合併を決定する予定であったが、町議会には反対意見もあったために慎重協議がなされ、十六日になり投票にかけられた結果、大多数で可決し(賛成一五人、反対六人)札幌市への合併が決まったのである(昭和十五年円山町町会議録)。
 しかしながら、町議会で合併案が満場一致でなく決選投票に持ち込まれたように、全町民が合併に賛成であったわけではなく、反対の町民も多かった。たとえば円山第六区の住民三〇人は十五年五月に陳情書を出し、
合併ノ取決メハ吾等飽ク迄反対スルモノニ非ラザルモ、少ク共其ノ実施期間ニ対シ現下ノ社会状勢ヨリ考察シテ(略)其ノ時期ニアラザル様考ヘラレ候ニ就テハ、戦時体制下ニ在ル期間ヲ以テ合併実施準備期間トシテ吾等ニ充分考究ト準備期間ヲ与ヘラレ候様……

と述べ、町側の一方的な合併スケジュールに対し「充分考究ト準備期間ヲ与へ」る様に要求し、合併の事期尚早を主張していた。また、十二月には円山地区住民六四人も陳情書で、「敢テ此ノ非常時局ニ町民ニ不安動揺ヲ与フベキ併合ハ絶対ニ避クベキモノ」「吾町民一心トナリ『町』ヲ護リ安ンジテ政府ノ諸政策ニ順応スベキ」と、合併反対を主張していた(円山町 札幌円山町合併関係書類綴)。翌十六年一月十一日には反対議員を中心に、合併反対の演説会も開かれていた。これらの意見に示されているように、合併は町民の意見を聞き合意をはかる協議機関がないままに、町理事者側のペースで推進されていたといえる。
 皇紀二六〇〇年記念事業として行われた札幌市との合併は、十六年三月二十五日に内務省より認可され、四月一日から実施されることになった。円山町ではこの日、札幌神社にて午前十時に合併奉告祭が執行され(札幌市でも同社で午後一時に)、その後、円山小学校で解町式が行われた。円山町では十五年八月に開基七〇周年記念式が挙行されたばかりであったが、ここに円山・山鼻村、藻岩村と続いた七一年の町村としての歴史を閉じることになったのである。なお、合併後は円山に札幌市の出張所が設置され、初代所長には元町長の飯田誠一が任命された。