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青果市場問題

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 第一次世界大戦後の不況期には、札幌市に出回る蔬菜類は、産地が近い割に値段が高いといわれ、問題視されていた(北タイ 大11・8・16)。これに対処すべく札幌市勧業課では、豊平町札幌村、白石村琴似村藻岩村各農会と提携し、臨時的な青物市場を大通西五丁目広場にて、昭和三年七月二十五日から三日間、十月二十三日から三日間開設した(北タイ 昭3・7・21、10・6、10・23)。翌四年七月二十五日から二十七日の場合には、販売者二一〇人、売上高一一八三円であった(北タイ 昭4・7・30)。「生産者より消費者へ」をスローガンとし、生産者の参加を目玉にしたわけだが、実際は仲買にも参加を促し、商人の地域別内訳は市内一三八人、藻岩村一六人、琴似村二一人、札幌村九人、白石村一一人、豊平町一五人であった(北タイ 昭4・7・30)。
 生産者が、直接市場で消費者あるいは小売商に販売するという方式は、すでに円山朝市で行われていた。また、札幌市会議員松本菊次郎琴似村農会桑園市場を開設、円山朝市が閉店している午後三時から開店する方針であった(北タイ 大15・7・25夕、昭2・8・1)。
 このほかに常設的な青果市場としては、札幌果実蔬菜商組合の手による札幌青物市場が、大通東一丁目にて営業していた。しかし、市民の青果物需要は年額一〇〇万円以上ともいわれ、昭和三年には青果問屋石田寅治らが十一月に市場開設の認可を得た(北タイ 昭4・4・5)。ところが青果小売商組合は、問屋主導の青果市場設立に反対し、小売商組合主導の市場設立に向けて動き出した(北タイ 昭3・11・5)。翌年三月には札幌青果市場株式会社が設立された。資本金は一〇万円、社長には札幌魚市場社長であった中西八百吉を据え、小売商組合員約一五〇人を専属仲買人として組織することになり、南一条西一丁目にて開業した(北タイ 昭4・4・5)。表16に、青果小売商組合が当初計画した青果市場の創立に関わった青果商と、結果としてできた札幌青果株式会社の専属仲買人を列挙している。これをみると両者はかなり重複することは一目瞭然である。青果小売商を抱き込むことにより、札幌青果市場は設立されたのである。
表-16 青果商一覧
札幌青果小売商組合(昭3.11.2) 札幌青果市場株式会社専属仲買人組合(昭4.8.17)
〔新市場創立準備委員〕
亀田総七   堀尾副組合長
沖長清三郎  前島副組合長
秋田長作   野田相談役
杉浦勇太郎  加藤相談役
川西定次郎
三守友勝   〔同実行委員〕
村口条四郎  林慶太郎
林満雄    加藤享吾
岡部安太郎  野田親吾
菊地啓太郎  堀尾正四郎
林組合長   三守友勝
組合長 加藤享吾  相談役 林慶太郎
副組合長 三守友勝  同  前島米楠
会計幹事 亀田惣七  同  野田親民
札幌市場株式会社青果部専属仲買人組合(昭4.9.8)
組合長 角屋藤吉
副組合長 安田基一,秋田長作
幹事・常任幹事 梶浦久平,佐々木幸四郎,池端与三松
同 梶川常蔵,中島常吉(以上会計係)
同 菅原重作,橘内新吉,江口久助,岡部安太郎,高橋昇
創立総会議長 石田(寅治) 
 
1.下線は昭和5年1月16日現在札幌青果小売商組合役員。
2.『北タイ』(昭3.11.5,昭4.8.18,9.12,昭5.1.17)より作成。

 ところで、魚市場を経営する札幌市場株式会社も青果部を設け、専属仲買人組合を創立した。その役員も表16に掲げたが、札幌青果市場専属仲買人とは異なる顔ぶれであった。昭和二年における各市場の取扱高を表17にまとめた。札幌市の青果物需要は年間一〇〇万円以上といわれるので、そのおよそ四割がこれらの市場を経由している。また、札幌市場株式会社が道外産青果物が大部分を占め、地元産が皆無であるのに対し、その他の市場はほぼすべて地元産が占めていること、その他の「産直的な」市場のなかでは円山朝市の取扱高は群を抜いていることなどがわかる。
表-17 青物市場の取扱高 (昭2)
市場名 開業期間 蔬菜・果実取扱高(円)
地元 道内 道外
札幌市場株式会社 通年 17,741 70,963 88,704
有限責任山鼻蔬菜販売購買組合 5月1日~11月30日 27,850 500 28,350
藻岩村蔬菜組合円山販売場 通年 247,000 247,000
札幌村蔬菜共同販売場 6.1~10.31 13,500 13,500
桑園青物市場 7.1~ 9 .30 30,000 30,000
合計 318,350 18,241 70,963 407,554
1.藻岩村蔬菜組合円山販売場は通称円山朝市,あるいは円山市場。
2.北海道庁産業部商工課『北海道市場要覧』(昭5.5)より作成。