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市内商工業者の階層と地理的分布

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 戦前期には、札幌市に商業者はどれほど存在し、どのように分布していたのだろうか。まず商業者総数だが、大正九年には「物品販売業」の国税営業税納税者は一四二八人、地方税(道税)営業税納税者は一四二三人、合わせて二八五一人であった。この後、国税営業税は大正十五年に営業収益税に変わるが、いずれも国税の免税点以下の業者が地方営業税納税者であった。国税・地方税納税物品販売業者は、十一年には四〇〇〇人を超え、昭和六年に五〇〇〇人を超え、九年に国税納税者三〇一一人、地方税納税者二一二七人、計五一三八人に達し、戦前期ピークとなる。その後は四〇〇〇人台に減少している(札幌市統計一班 各年)。
 また、昭和十年第一回市会において、ある議員が「商工会議所ノ調査発表スル所ニ依ルト物品販売業者トイフモノハ、コノ札幌市内ニ八千二百五十三戸 ソノ中四千九百五十戸ハ所謂小売商人デアル……」(笹沼孝蔵議員の質問 昭和十年第一回札幌市会速記録 第六号)と述べている。商工会議所発表の資料が不明なので確認できないが、国税・地方税納税者に非納税者を加えれば、そうなるのだろう。ちなみに、第一節表2の昭和五年国勢調査結果によると、札幌市の商業従事者は一万七二七八人であり、町村部は二〇三〇人、現市域では一万九三〇八人にもなっていた。もっともこれは商店従業員をも含む数なので、商業者数とは異なっている。
 札幌商業(工)会議所では、商工会議所有権者の市内商工業者名簿を編纂している。昭和八年のものにつき、いくつか検討してみよう。まず、表18をみると、掲載された商工業者(法人を含む)は全部で一八一七人である。組織別には、札幌に本社を置く株式会社が六一社、支社等を置く株式会社が五九社であり、合資会社、合名会社を合わせ、法人は一六一社、個人は一六五六人となる。
表-18 商工業者の階層 (昭8)
20円未満 20円以上30円未満 30円以上50円未満 50円以上100円未満 100円以上300円未満 300円以上500円未満 500円以上1000円未満 1000円以上 合計
株式会社本社 2 3 6 7 15 5 4 10 61
    支社 1 1 7 6 18 11 4 6 59
合資会社 4 9 3 3 8 1 2 31
合名会社 2 1 2 3 2 10
個人 522 402 329 260 128 11 2 1 1,656
合計 531 416 345 278 172 29 11 19 1,817
1.株式会社支社には,支店,出張所,販売所,営業所,変電所,支部を含む。
2.合資会社には,支店,出張所,派出所を含む。
3.札幌商工会議所『札幌商工人名録』(昭8)より作成。

 納税額の最低は一五円一八銭だが、これは一人のみで、一五円四〇銭が最低ラインとして層をなしている。商工会議所有権者の納税条件がこの額だったのだろう。最高は北海道拓殖銀行の三万三二一一円、次いで北海水力電気の二万一二五七円、大日本麦酒札幌支店の五九一七円、第一銀行支店の三二六一円、合資会社堀内組の三〇八六円と続いている。
 営業税納税額の階層性を表18によりみてみよう。株式会社は本社、支社ともに一〇〇円以上三〇〇円未満が最多で、とくに支社は上層に多く分布している。合資会社は二〇円以上三〇円未満が最多で、一〇〇円以上三〇〇円未満も多い。合名会社も五〇〇円未満までにとどまり、個人は、上層にも存在するものの、下層にいくほど人数が増している。ちなみに営業収益税課税額は、純益金額六〇〇円で税額一四円、七〇〇円で一六円八〇銭となっており、一五〇〇円で三九円二〇銭であった(札幌商工会議所月報 六四号)ので、商工会議所有権者は、純益金額六〇〇~七〇〇円以上の商工業者とみなしてよいだろう。
 次に、これら商工業者の地理的分布を検討しよう。図6は、札幌市を七つの地域に区分し、そのなかの法人を含む商工業者数、営業税納税額平均をまとめたものである。人数としては南西部に全市の五三・六パーセントが分布し、次いで北西部に一七・一パーセントが分布している。また、市内豊平に九九人いることに注目したい。営業税納税額では、その他、南東、南西、北西、北東、豊平、白石の順となっている。その他は、元村町四人、苗穂町一人であり、大日本乳製品株式会社を含んでいるので高くなっている。

図-6 商工業者の分布

 ただし、先にも述べたように原資料は、営業収益税納税者(一五円四〇銭以上)に限られている。免税点以下の地方税営業税納税者を加えると、商業者数は倍になる。しかも営業収益税納税者と営業税納税者の比率は、中心部では前者が多く、市の周辺部では後者が多かった。商業者中の営業収益税納税者は、たとえば、南一条通、南二条通、狸小路では五四~六七パーセントであるのに対し、鉄北、鉄東、苗穂、山鼻、白石では二一~三五パーセントにすぎなかった(札幌小売業組合同盟会 第一回札幌市商業調査 昭11・12施行)。すなわち実際に存在した商業者は、市全体では図6の数のおよそ二倍とみてよいが、市の周辺部では約三倍、中心部では二倍弱であると推測されるのである。
 いくつかの地域について、立ち入って検討してみよう。まず、北部についてまとめたのが表19①である。鉄北地区への市街地の拡大が著しく、西四丁目、東一丁目などは商工業者の集積がみられる。東一丁目は石狩街道だが、明治四十四年から昭和九年の札沼線開通に伴う廃止まで馬鉄が通り、一日に貨車四回、客車六回運行した。利用者は「行商、石狩・茨戸方面から日用品の買い出しにくる農民、また、天使病院に通う患者」(東区今昔 三 東区拓殖史)などであった。同書には、全盛期の東一丁目、北八条から北一三条までの間に存在した商工業者名が七七軒記されているが、札沼線開通により衰退していったという。
表-19① 商工業者の分布(北部)
西11丁目以西 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 東1丁目 2 3 4 5 6 7 東8丁目以東
北12条以北 1 1 4 12 5 1 2 1
北11条 3 1 1 4 1 1
北10条 4 1 3 2 5 2 2
北 9 条 2 3 1 8 3 1 1
北 8 条 1 2 4 3 2 8 8 3 1
北 7 条 1 2 2 3 4 4 4 4 2 5 1 1
北 6 条 6 2 4 6 2 7 1
北 5 条 7 2 1 2 1 2 5 1 4 4 2 1
北 4 条 6 4 2 7 5 14 8 1 3 10 5 3
北 3 条 3 1 14 7 7 1 8 6 6 2 3 1 10
北 2 条 1 3 15 7 11 8 1 1 1 2 7 24
北 1 条 6 1 5 6 3 3 2 27 4 3 9 8 5 5 5 7

 大通から南九条までは、表19②である。南北の線では、西四丁目と西三丁目に集中し、南二条・三条では、西一・二丁目にも集中がみられる。また、南六条以南の西八・九丁目は東屯田通の両側であり、山鼻地区でもっとも早く商店街を形成した地域である。また、行啓通、西屯田通も商店街として発展を遂げていたという(山鼻創基八十一周年記念誌)。表にはないが南一三条から南一六条にかけての東屯田通には、昭和二年に家具、履物、メリヤス、菓子、薬、豆腐、米、銭湯、そば屋などが並んでいた(札幌歴史地図 昭和編)。商工業者がまとまって存在した市内豊平地区について、表19③にまとめた。豊平三条にもっとも多く集中しているが、これは月寒本通である。
表-19② 商工業者の分布(大通~南9条)
西11丁目以西 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 東1丁目 2 3 4 5 6 7 8丁目以東
大通 9 1 1 5 3 3 2 15 10 8 3 1 1 6 4 1 2 4
南1条 38 6 7 11 14 16 18 29 20 13 17 12 14 9 3 2 2 2
南2条 4 2 6 9 7 14 21 33 30 30 20 11 14 2 4 1 1
南3条 1 4 2 3 3 13 14 27 38 28 29 17 15 9 3 1
南4条 9 1 4 3 6 2 9 25 12 12 5 11 12 8
南5条 6 2 4 4 5 6 7 13 13 9 3 3 5 3 2
南6条 8 2 4 4 7 4 9 9 5 1 1 2 2 1
南7条 5 1 6 7 2 4 1 3 6 3 3 1
南8条 9 1 1 4 4 3 3 6 5 2 2
南9条 3 4 2 3 4 1 7 1

表-19③ 商工業者の分布(豊平地区)
1丁目 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14丁目以南 札幌商工会議所『札幌商工人名録』(昭8)より作成。
豊平1条 1 3 2 1 1 1 1
豊平2条 4 4 1
豊平3条 11 8 6 9 10 3 4 4 2 1 1 1
豊平4条 1 1 2 3 1 2
豊平5条以南 1 3 1 1