『豊平町史』によれば、「大正末期に至って我が国においてもますます鶏卵の需要が多くなって国産だけでは不足して、中国から上海卵等と称して相当量を輸入した。それで輸入を防止して国内産業発展のために時の政府は国策として養鶏事業を奨励普及する事となり国内に数カ所農林省管轄の種鶏場を新設した。東北・北海道には青森種鶏場が設置され、種鶏と種卵の配布を行なった。本町では昭和元年、二年頃札幌外四郡農会から町農会に白色レグホーンの種卵を配布して来た。又真駒内種畜場の払下げも受けた。そして品種の改良と産卵率の向上を計った」という。前掲の表32は、昭和四年の札幌地域における養鶏の状況を示したものである。ここに表出しなかった大正十二年及び昭和十年(戸数と羽数のみ)のデータも含めて札幌地域の養鶏の動向を示せば、大正十二年飼養戸数二一九九戸、成禽・雛数三万四一七九羽、一戸当り一五・五羽、昭和四年二〇九〇戸、七万六二八四羽、三六・五羽、昭和十年一二六二戸、四万七〇五〇羽、三七・三羽であった。
養鶏組合についてみると、①藻岩村家畜家禽奨励会(大12・1設立)、所在地は藻岩村、組合員数三五〇人、飼養羽数三五〇〇羽(以下同じ)、②札幌養鶏組合(大14)、札幌市、二四人、六〇〇〇羽、③琴似村養鶏組合(昭1・12)、琴似村、八五人、二八五〇羽、④札幌専業養鶏組合(昭2・1)、札幌市、二〇人、八〇〇〇羽、⑤石山養鶏組合(昭3・2)、豊平町大字石山、三一人、一五〇〇羽、⑥軽川養鶏組合、手稲村字軽川、三〇人、一五〇〇羽となっている(農林省畜産局 本邦ニ於ケル養鶏団体 昭5、昭8)。