満州事変勃発当時、女性による全国組織としてすぐ活動を開始したのは、愛国婦人会である。市史第三巻でも述べたように、主として上流婦人より構成されていた同会は、在満州将卒約一万二〇〇〇人に慰問袋を寄贈する計画をたて、十月中旬同会北海道支部でも一〇〇〇個分担することになった。これはすぐに市・支庁に割り当てられ、札幌市は五六個であった(北タイ 昭6・10・15)。この割当募集に対し、「各地とも熱狂的な応募振ですでに三千個に達せんとする勢い」であった(北タイ 昭6・11・6夕)。愛国婦人会道支部では、これら慰問袋の発送、軍人遺家族や傷痍軍人の慰問等を精力的に行っている。ちなみに慰問袋の内容は、干菓子、スルメ、干貝、手袋、靴下、絵葉書、美人写真、安全カミソリ、小形人形類、バット(煙草)などであった(北タイ 昭12・3・8)。このうち美人写真を慰問袋に入れたのは日露戦争当時からで、前線の兵士たちに非常に喜ばれたという。うがった見方をするならば、家族写真ならぬ美人写真を送る側にもそのこと自体が女性の性の利用であり、その延長線上には従軍慰安婦といった陥穽があることには気づかなかったといえよう。
軍人遺家族や傷痍軍人への慰問も、七年に入って盛んに行われ、その内容も、札幌聯隊区司令長官の「満州事変に就て」の講演と活動写真、長唄、舞踊、浪花節などの演芸で、菓子折を贈るといったのがパターン化されてくる(北タイ 昭7・10・12)。
第七師団では、昭和十年七月二十四日より三日間にわたり札幌、旭川、小樽、室蘭四市、留萌、上川、空知、石狩、胆振、日高、後志七支庁管内各町村を区域とした道内はじめての防空演習を実施したが、愛国婦人会札幌支部では救護班と配給班の役を受け持ち、防毒面の着け方、包帯や応急手当の方法などの速成教育を行っている(北タイ 昭10・7・25~27)。当日の服装は、昭和十年に決定された全国二〇〇万人の会員の新制服か、エプロン姿にたすき掛けと指定された(北タイ 昭10・6・20)。
「小学校卒業と同時に一家の犠牲となって実社会に送り出された女のため」、十年八月に愛国婦人会北海道支部隣保館の手によって、札幌実業女学校(夜間女学校)が開設されたことは特筆すべきことであろう。授業内容は普通の学校と同様で、特に戦時色はない(北タイ 昭10・8・27)。十一年三月二日、愛国婦人会は創立三五周年を迎え、全国二三〇万人の会員は各支部ごとに記念式を挙げた。北海道支部でも同日札幌時計台で記念式を挙行、記念事業として戦病死者遺族、傷痍軍人、出動軍人留守家族を慰問することとし、札幌市内二〇の分区長が道支部長に代わって各家庭を訪問、慰問品を贈呈した。この時、慰問を受ける家族は二五〇〇戸に達していた(北タイ 昭11・3・5)。
一方、満州事変を契機に七年三月大阪に国防婦人会が誕生した。会員は四〇人くらいで、「お国のために命を捧げる人々に安心して出発して貰うのが銃後婦人の務めである。これが自分の為の仕事だ」という趣旨で始まり、翌年には全国に一五万人、翌々年には一〇〇万人を組織していった(藤井忠俊 国防婦人会)。陸軍省のバックアップのもと、北海道内では旭川に八年十二月十六日国防婦人会が会員三〇〇〇人で発足(北の女性史)、札幌に九年六月二十三日、北海道国防義会の婦人部が独立して婦人国防義会を組織した(北タイ 昭9・6・27)。これがのちに大日本国防婦人会の地方本部になるのである。この婦人会結成の趣旨は「国防は家庭より」であり、「婦徳の発揚、時局の認識、傷痍軍人の慰恤」をおもな目的とし、全員白の割烹着姿で出席、会員は札幌市内約五〇〇〇人、地方約一万五〇〇〇人からなり、この日約一〇〇〇人が集まった。九年の全国の会員数は、四月五四万二〇〇〇余人、六月六七万八〇〇〇余人、十二月一二三万四〇〇〇余人に膨れ上がっていった(大日本国防婦人会十年史)。
やがて、十一年十月に陸軍特別大演習が北海道で挙行されることが決定すると、各地に国防婦人会支部・分会が集中的に組織されていった。たとえば、九月七日現在、札幌市内に山鼻分会はじめ二一分会、一万三一三〇人が組織された(北タイ 昭11・9・8)。また市外藻岩村の場合では、十一年九月二十五日藻岩村公会堂で会員三〇〇余人で藻岩村分会が発会し、札幌聯隊区司令官の挨拶、会長・副会長決定のあと、一同札幌神社に参拝、「銃後の務めを完遂すべきを誓」っている(北タイ 昭11・9・27)。こうして北海道の場合、十一年の陸軍特別大演習の挙行が強力な後押しとなって国防婦人会を各地に結成させ、一つにまとめあげる役割を担った。