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出征と凱旋

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 昭和九年二月四日、第七師団の永見部隊(ながみぶたい)(聯隊)が大陸へ向け出発した。通過駅にあたる札幌駅では出征を送る雑踏に備え、ホーム入場者を制限し、各種学校や団体は地域割で歓迎を行うこととした(北タイ 昭9・2・4)。これより先の一月三十一日、先発隊の杉原部隊将校六〇人に対し、札幌市や道庁は札幌市公会堂で壮行会を行った(北タイ 昭9・1・25)。同隊の乗船地である小樽市では「芸妓連」を「総動員」して大壮行会を行ったという(北タイ 昭9・2・4)。軽川(現手稲)駅では、出征部隊が通過するたびに、兵士全員に菓子を贈る親子三人のお菓子屋さんが現われている(北タイ 昭9・1・5)。手稲村役場では在郷軍人会などと協力し、「出征軍人慰問大演芸会」を開催している。出演者はみな「素人離れ」であったという(北タイ 昭9・2・6)。
 これより先の八年七月四日、札幌を本営とする将兵二七六人が凱旋、札幌駅から大通まで歓迎の人々で埋まった(北タイ 昭8・7・5夕)。一方、それより二一日後の七月二十五日、三三人が「死の凱旋」をした。うち札幌部隊は二人である(北タイ 昭8・7・26)。満州事変勃発から八年九月十五日までの二カ年間の北海道内の戦死者は一五七人にのぼった(北タイ 昭8・9・19)。
 凱旋した札幌市内四七戸の大多数が待ち受けていたのは「失業の苦」であった。除隊後も復職できると信じていたところ、そうではなく、「武士は喰ねど高楊枝」の苦痛にあえぐこととなった。市役所では職業紹介所を開放し凱旋兵に就職の優先権を与えたが、求人口はほとんどなく、「頭を悩め」ることとなった(北タイ 昭8・7・21)。この後の十年三月十八日、月寒の歩兵第二五聯隊の凱旋が行われている(北タイ 昭10・3・17)。
 このように戦争が身近なものとなるなかで、前述のように十年七月二十四日より三日間、札幌、小樽、旭川、室蘭四市七支庁で防空演習が行われた。札幌市の防空演習は、昭和三年九月三十日「都市が大変災に処する方策を考究」を目的としてはじめて行われたが(北タイ 昭3・10・1)、満州事変以後はじめてのもので、十年の場合は予行演習をやるなど、規模も大がかりで市民全体を巻き込んで行われた(北タイ 昭10・7・27)。
 防空へ日本国民の関心を誘うために、防空演習の前年、すなわち九年二月二十七日より三月三日まで、中島公園農業館を会場に防空展覧会を開くことになった(北タイ 昭9・2・21)。札幌市民は、次第に戦時体制に組み込まれていった。