住宅改善の必要性は、豊平町湯殿山裏一帯に並ぶ細民地区にみられたように、家屋の腐朽甚だしく、昼なお暗いじめじめとした非衛生的な不良住宅地区から発せられた。大正十二年六月、保導委員等の斡旋で岩井鉄之助(荒物屋や雑品回収問屋を営む、東京の細民街を視察、「バタヤ」の親方等から体験を教わる)は、一戸七軒の長屋五棟三〇戸を北海中学校通りに建築して提供した(おいたち)。長屋は二間に三間半で、入口にガラス戸を入れ、畳付、家具付で家賃は日払一〇銭であった(北タイ 大12・6・5)。ところが住民は、冬季の燃料に古材などを拾ってきて山と積み、住民の衣服は不潔で、ガラスを割ってもムシロを下げる状態で、保導委員や付近の住民から苦情があがった。そこで岩井鉄之助は長屋住民の教化の必要性を感じ、十四年に長屋の住民のための公会堂「愛隣館」(二階建て七〇坪くらい)を建てた。ここはおもに修養会として使用していたが、不況とともに失業者(浮浪者)が集まってきたため宿泊施設とした。これが愛隣館無料宿泊所(後述)である(おいたち)。
保導委員たちが臭気漂う細民街に足を踏み入れて目にするのは、トラホームに罹患して目を真赤にした人びとや何らかの疾病者たちであった。このため札幌市では、大正十一年以降細民罹病者の無料巡回診療を年二回くらい実施した。十一年、円山病院の医師一人を豊平細民街へ派遣して無料検診を実施したところ、トラホームに罹患しているものは七、八十人に及んだ(北タイ 大11・12・7)。翌十二年札幌市では、社会事業費中にはじめて巡回病院費を計上し、八月細民巡回診療を実施した。巡回箇所も豊平分院(豊平細民街)をはじめ東小学校、鉄北倶楽部、苗穂町西本願寺説教所の四カ所となり、検診患者は二〇〇人以上にのぼった(北タイ 大12・8・22)。
昭和二年十二月十一日、豊平細民街に無料診療所が落成した。これは前年九月以来、北大医学部松江・友松両医師が診療所開設のために献身的に働きかけた結果であった(北タイ 昭2・12・12)。この時期になると細民を対象とした無料診療所は他所でも実施された(後述)。
細民救済のうち、金品給与が開始されたのは昭和五年からである。表30は、五年から二十年までの救済状況を示したものである。表でみる限りでも六年から十三年の救済人員のピークは、まさに不況にともなって排出された人びとの姿を反映しているといえる。一貫して歳末救済が主であるが、不況によって細民が急増した五、六年の場合、家族一人につき白米二升ずつを臨時救済した。歳末救済は、五年の場合一世帯木炭一俵、醤油一本(四合瓶)、一人餅一升、白米一升であったが、九年からは現金と物品に、また十四年からは現金のみ支給と変わった。この救済費は、札幌市方面事業助成会の支出のほか篤志家の寄付や慈善演芸会の収益金をあてた。これら金品給与の場所も、はじめ豊平経王寺や消防番屋などを用いたが、のち各地域の方面委員宅となった(札幌市事務報告)。
写真-9 歳末救済を受ける豊平細民街の人びと(北タイ 昭3.12.30)