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北海道帝国大学の設立・拡充と学生運動

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 大正七年、東京、京都、東北、九州に続く、全国で五番目の「帝国大学」として、北海道帝国大学が設立された。その母体となったのは、明治四十年に設立された東北帝国大学の一分科大学としての農科大学(旧札幌農学校)であった。北海道帝国大学は、翌八年に農学部、医学部、十三年には工学部を、さらに昭和五年には理学部を新設し、四学部から構成される官立の理系総合大学となった。また、同大学は旧札幌農学校の予科も統合し、予科課程を有する唯一の「帝国大学」であった。
 同大学の「分科大学」から「帝国大学」化へ向けての動きは、大正三年頃から「大学独立問題」として論議の対象となり、多くの札幌区民の関心を集めていた。大正五年には当時の札幌区長・阿部宇之八が、農科大学学長・佐藤昌介北海道庁長官・俵孫一らとともに上京し、文部省に対して「医科増設、大学独立」を陳情した(樽新 大5・5・27)。この陳情を通して、阿部らは文部大臣・高田早苗から「開拓使以来の歴史を有する札幌農科大学が其歴史上よりいふも京都、福岡両大学に先んじ独立の出来てないことは頗る遺憾」という発言を引き出した(同前)。とりわけ、「医科増設」問題は医師の絶対数が不足している北海道にとっては、早急に解決すべき重要な政策課題への対応策でもあった。そうした意味で同大学の設立は改定期を迎えていた「北海道第一期拓殖計画」の動向と密接な関係を有していたといえよう。初代総長に就任した佐藤昌介は同大学の設立に際し、当時の政友会総裁・原敬の尽力によるところが大きかったと述べている(北タイ 大10・8・10)。
 周知のように、大正十年代から昭和初年にかけての学生運動は社会主義や共産主義の思想的な影響を受けていた。同大学でも昭和二年六月に農学部農業経済学科の学生が、社会問題や政治問題を研究する「読書会」を組織し、テキストとしてエンゲルスの著作『フォイエルバッハ論』を選んだ(北海道帝国大学新聞 第一二号)。この「読書会」は、翌三年の「某重大事件」(注 三・一五事件)を契機として解散を勧告されたが(同前 第二五号)、そのメンバーはこれから述べる「文武会事件」で指導的役割を果たした。同大学では三年十月に学生の「思想善導」対策として、専任の学生主事を二名配置した(樽新 昭3・11・3)。
 同大学の「文武会」は札幌農学校以来、生徒を会員とし、校長を会頭、教職員を特別会員とする全学的団体で、学生の文化や運動関係の団体は同会に所属していた(北大百年史 通説)。「文武会」事件は昭和三年十月に同会の運営方法をめぐる学生側と大学側の対立に端を発し、大学側が工学部学生を放学処分とした(同前)。学生側は処分者の復学要求を掲げて、同年十二月五日から二〇〇〇人が同盟休校に入った(東京日日新聞 北海道樺太版 昭3・12・6)。しかし、学生側の結束が崩れ、各学部・予科などでは同月十三日までに同盟休校の中止を決定した(北大百年史 通説)。この事件による処分者は七人に上った(新北海道史 第五巻)。