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日中戦争の開始と文化状況

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 札幌の文化史の画期を考えると、昭和六年の満州事変の変化はさほどではないが、圧倒的に昭和十二年七月七日の蘆溝橋事件を契機とする日中戦争の開始は、札幌の社会・文化に戦時色をもちこむ。
 なによりもこの時期の札幌の関心事であったのは、年来の冬季オリンピック札幌開催である。しかしこの年の六月九日に、国際オリンピック委員会が正式決定した直後、日中戦争の勃発によって、翌昭和十三年七月に日本政府は大会を中止する。
 第一次世界大戦後の世界的な観光ブームは、昭和にはいって北海道にも影響し、冬季オリンピックの開催をみこして、昭和九年には阿寒・大雪国立公園の指定や、道庁主導の北海道景勝地協会の設置、札幌グランドホテルの開業と、観光事業の整備がなされた。十一年には札幌観光協会が旗揚げするが、外客が札幌を訪れるのも十一年がピークであり、翌年の日中戦争の勃発をもって観光ブームは終熄する(高木博志 国際観光と札幌観光協会の成立―日中戦争前夜の観光ブーム 札幌の歴史29号)。
 昭和十二年二月の市会で聖徳記念事業として、聖恩碑の建立と聖徳記念館の設置が決定し、日中戦争勃発後に聖徳記念館を豊平館に設置することが決まる(札幌市 聖徳記念豊平館紀要、北タイ 昭12・9・29)。八月二十四日の近衛文麿内閣の国民精神総動員運動(「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」の三大スローガンをかかげる)をうけて、十月七日には札幌市公会堂で初の集会が開かれる。五〇〇〇人の聴衆を前にして、光延海軍中佐は「日支事変の真の目的を認識して、国民たる覚悟」を促す講演をし、「事変ニュース、昨秋の行幸ニュース」が上映された(北タイ 昭12・10・8)。
 同年十一月二十三日には、「銃後の感謝を盛りあげて皇軍に捧げん」とする幌都合同音楽会が、北大文武会マンドリン部・札幌鉄道倶楽部音楽部札幌新交響楽団や九島勝太郎鈴木清太郎千葉日出城など、一五〇人におよぶ「札幌楽壇のベストメンバー」で開かれる(北タイ 昭12・11・23)。
 『北海タイムス年鑑』(昭14年度版)は、「映画とレコードとラヂオ、この三つは今日の大衆娯楽の中心層」とし、一日一〇〇〇万人以上の大衆とつながるラジオは「大衆娯楽の雄」とみなすが、日中戦争(事変)前後の最大の変化として、ニュースの聴取の増大と娯楽放送の低下、浪花節や講談が嗜好の上位に台頭してきたことをあげる。
 こうした伝統的な芸能への民衆の嗜好はますます強まり、河合裸石は十五年に「追分節、浪花節」と題し、「ひと頃鳴りを鎮めた浪花節が事変の浪に乗って台頭し素晴らしい勢ひで大衆層に喰ひ入って来た」(北タイ 昭15・4・11)と述べるに至る。
 昭和十三年には、能勢真美らが中心となって、美術報国として手始めに慰問画を献納する札幌美術家聯盟が生まれる(北タイ 昭13・5・8)。七月十六日には札幌市公会堂で吉田晴風吉田恭子花柳徳兵衛ほかによる、尺八・箏曲・長唄・清元・舞踊などの、「戦歿将士遺家族慰安、国粋芸術の夕」が催される。いまや邦楽は国粋芸術と称される(北タイ)。八月二十日には北海道におけるネオン統制もはじまる。
 十三年八月六日の『北海タイムス』には、札幌の文化と娯楽の状況を伝えるルポルタージュがのっている。レコードでは、上原敏の「上海便り」が「露営の歌」「愛国行進曲」に続いて圧倒的な売れ行きをみせ、ジャズ類は「当局の睨みが利いて」三割から四割売り上げががた落ちすると報じられる。その一方で、フルトベングラーのべートーベンの交響曲五番「運命」が「たくましい売れ行き」とある。映画は「事変前は一日の収入の六割まで昼間興行で稼いだものが、いまぢゃ昼の二回が夜の一回にも比ぶべくもない」とされる。もっとものちに述べるように、『北海道庁統計書』では、昭和十三~十六年まで活動写真の観客動員数は増え続けている。射的屋やパチンコ屋の主人がいうには、「てんで話にも何もなりやァしませんや、事変まへまでにゃポンポン景気よくやってくれたんだが、今ぢゃ遊んで呉れる人も去年の半分足らず」といった有様である。一方、盛況をみせたのが、徒歩旅行・ハイキングの「戦時らしい愉楽」であった。