『原始林』休刊後、札幌で山縣汎ら旧『原始林』派が芥子沢新之介を指導者に迎えて、大正十五年に『にひはり』を出したが長続きしなかった。その芥子沢が中心となって『吾が嶺』が昭和二年に創刊され、昭和十一年まで一一一号を出した。芥子沢は大正六年『アララギ』に入会した人で、島木赤彦の選を受けて写実を旨としていた。『吾が嶺』には招待作品として小田観螢、山下秀之助、伊藤俊夫、斎藤春雄などの作品をたびたび掲載して道内有力誌として発展した。『吾が嶺』の廃刊は『多磨』の地方誌統制による。
昭和五年一月創刊の『新墾』は現在も刊行されているが、潮音系の小田観螢が主宰で、編集兼発行人岡本高樹、庶務担当板垣隆義、会計福住一郎という構成で社友一六〇人。松田宗一郎、村田豊雄、山名薫人、西川青涛、野原水嶺らが所属した。創刊号の巻頭で、小田観螢は「芸術と時代性」を書き、その中で「芸術は個人の感情表現が重要である。それも居住する地域状況、生活と無関係ではなく、単なる花鳥風月的作風を排脱して、吾々の身辺に関係深い時代の科学現象、経済現象を題材とするが、その背後に微茫悠遠な生命の世界と豊かな感情の流れがある。これらがいはば永遠に貫く芸術の本流である」と述べている。また、「写実とローマンに対しとらわれない生命的感情に立つて、現代という時代の多辺的なものに詩境をひらきたい」という考え方が『新墾』の主張する「生命感情」の論拠となった。
創刊当時季刊であった『新墾』は、昭和十年から月刊になり、戦前における北海道歌壇の雄としての存在を維持し、十九年二月の歌誌統合による休刊まで継続した。