大正の終わり頃から昭和初期にかけて、全国的にプロレタリア文学が盛んになった。俳句の世界に既成の作句態度に対する批判が芽生えてきた。昭和二年五月、室積徂春が『ゆく春』を創刊したのを機に、小原野花、八木一紅女、岩田千畝らが「木芽句会」結成し、翌年四月には「ゆく春会札幌支部」を組織した。
昭和四年十月、鮫島交魚子、水無瀬白風、久保田一九らによって北辰病院にホトトギス系の「ポプラ会」を結成し、十八年までに『ポプラ』を一七〇号出した。五年一月には辻岡一羊を中心に「札幌微笑み会」を結成した。六年には「凍土会」が中心となって「札幌ホトトギス会」を結成した。
昭和七年五月、「有無会」「軒雪会」の中心として本道俳句作家の育成に尽力してきた天野宗軒が、有田豊涯、植田小寒らを中心に「水声会」を結成し、翌年二月には『水声』を発刊して優れた作家を輩出した。八年十月、松本幽石、高橋渓河らが中心となって拓殖銀行内に「ダリヤ吟社」が生まれ、敗戦直前まで継続した。九年六月、小野白雨が自分が所長をつとめる札幌結核療養所に「つつじ吟社」を結成した。十年八月、鮫島交魚子が「ポプラ会」の会員を北辰病院外の俳句作家の参加も企図して「札幌諷詠会」を作った。
昭和十三年四月、天野宗軒の提唱により小笠原洋々、近藤菊秀、鮫島交魚子ら各派の中心が集まって、芭蕉精神に立つ俳句の本質を探究する「木曜会」が結成されたが、戦局の進行によって結実するに至らなかった。
昭和十七年十一月、石田雨圃子を会長に、青木郭公を顧問にして道内各流派を糾合して「北海道俳句作家協会」が結成され、百五十余名の参加者を擁した。これは翌十八年二月に結成された「北海道文学報国会」に吸収され、文学統制の下に置かれた。
昭和十八年三月、白川療養所に「ひこばえ句会」が生まれ、『ひこばえ』が刊行された。十九年三月、当局の指示によって『あしかび』(『時雨』改題)、『暁雲』がともに発刊を停止され、九月には「はまなす会報」も廃刊させられた。かくして、他の文芸ジャンルと同様に俳句も統制下におかれることになったのである。十九年十月創刊の『踏青』は最後の俳誌となった。大正十五年から敗戦までの二〇年間に出た句集は一一冊にとどまった。