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交響楽団

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 交響楽団の始まりも、北大からである。大正十年十二月五日、北大ソキエタス・パストラーリスが、札幌シンフォニー・オーケストラ、チルコロ・マンドリニスティコ・アウロラ、モルゲン・メンネルコールの三団体から発足した。大正十二年一月十九日には、札幌シンフォニー・オーケストラが独立した。
 大正十三年十月二十八日小樽(公園館)、十月三十日札幌(金春館)、十一月九日函館(公会堂)で行われた、札幌シンフォニー・オーケストラ(札幌交響楽団)第一回発表演奏会では、ビゼーの「アルルの女」前奏曲、ラロのバイオリン協奏曲「スペイン交響曲」、べートーベンの交響曲第五番「運命」などが演奏された。昭和九年四月に作成された第一回『札幌交響楽団々報』では、予科の新入生にむけて、札幌交響楽団の目的を、「ともすれば一般音楽者の陥り易い感傷的傾向を排して、明るい剛健な気持で西洋音楽の神髄に触れ、之を媒として団員相互の友情を涵養」することをあげ、交響楽団にスポーツマンが多い理由とする(多米浩旧蔵史料)。
 大正十三年には、北海道帝国大学文武会音楽部が、管弦楽部、マンドリン部、声楽部の三つのパートから発足し、ここに北大における文武会と札幌シンフォニー・オーケストラの二オーケストラの並立時代が開幕し、昭和十六年十二月十六日に、北大交響楽団第一回定期演奏会で両者が統一するまで続く。
 北大にオーケストラが誕生した大正十年(一九二一年)頃には、マンドリン、ハーモニカの団体が叢生していることから「全般的に音楽熱」(北海道音楽史)が高まった時期と考えられる。
 また、昭和三年開局以降、札幌のラジオ番組に常時出演した団体として、同年結成の石井春省(はるみ)率いる中島オーケストラ、昭和六年結成の拓博管弦楽団、そして元映画館の楽士たちが集まって活動していたSMCオーケストラがあった。昭和八年頃には、札幌鉄道局管弦楽団も結成される。
 特筆すべきは、昭和十二年四月に市民が担うオーケストラとして結成される札幌新交響楽団の活動である。
 同年五月三十一日夕刻七時より、同交響楽団のおひろめをかねて、「楽聖べートーベンの夕べ」が、松竹座にて催される。第一部は、鈴木清太郎がスポットを浴びて独演するピアノ奏鳴曲「月光」、そして田上義也指揮、交響楽第五番「運命」である。田上義也の手元にあったちらしには、「音楽は、札幌市に於ける最優秀の楽人のみを以て選抜結成された本道空前のベストメムバー、東京以北最高の交響楽団として最近誕生したばかりの札幌新交響楽団」と銘打たれる。第二部は、フランス・ゼネラル映画の「楽聖べートーヴエン」であった。
 この時代、「一般に高級な音楽といへばべートーヴエンを中心にした一種のロマンティックな英雄的なもの」であり、レコードでもべートーベンは売れ筋であった(レコードの鑑賞 北タイ 昭10・8・27)。
 昭和十二年十一月六日、豊平館で行われた札幌新交響楽団の「試演会」でもべートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」が鈴木のピアノで演奏されるとともに、交響曲「運命」が田上の指揮で演奏されている。この年の十二月八日には、札幌新交響楽団はやはり交響曲「運命」でラジオに初登場する。札幌新交響楽団は、第一回昭和十四年十二月九日から、第五回十七年十一月二十八日(於公会堂)まで定期演奏会を開くが、第五回を最後に以後は活動停止となる。
 昭和十六年に日本放送協会(NHK)は、地方局六局に管弦楽団と合唱団をつくり、札幌放送管弦楽団が誕生する。