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戦時下の音楽

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 昭和十年十二月十九日付『北海タイムス』の札幌のレコード店(冨貴堂楽器部岩水蓄音機フタバ楽器店など)関係者の座談会では、洋楽レコードの売れゆきを以下のように伝える。「一流カフェーに交響曲や提琴、洋琴の独奏曲がかけられてゐる。次から次に発表される組ものゝ交響曲、協奏曲等三十円から五十円のものがすら/\と売れてゐる」。またレコードの王座は流行歌であり、浪花節の売れゆきも多く、「国粋の色は札幌にも濃い」とする。
 十一年十一月六日にグランドホテルで、「大衆性を有する音楽・舞踊、又は映画」などの舞台芸術の発展をめざして、道議会副議長や実業連合会長、北大関係者らの賛助のもと、舞台芸術聯盟が誕生する(北タイ 昭11・11・6)。同年十一月二十三、二十四日には、宝瑩座で第一回総合芸術公演会を行うが、プログラムは「極彩色発声映画を劈頭に箏曲三絃、舞踊、琵琶、尺八、民謡、歌澤等、日本芸術の粋」をみせるものであった(北タイ 昭11・11・22)。
 日中戦争勃発後の札幌音楽協会の活動をみてゆく。札幌音楽協会の講習会として、大衆が好む「愛国行進曲」「凱旋」などの時局歌の合唱講習会が鈴木清太郎らにより、十二月一日に冨貴堂ホールで行われる(北タイ 昭13・11・30)。
 十六年九月には、「大衆の音楽的欲求の旺盛と、これに伴ふよき指導機関の設立要望」をうけて、札幌音楽協会の改組が行われる(北方文芸 三)。従来の管弦楽や声楽だけでなく、軽音楽やレコードコンサート、邦楽をも組み込んで、従来の演奏会だけでなく職場や学校に指導員を派遣していこうとする。新たな組織は、総務部、事務部、学校部、管弦楽部、吹奏楽部、室内楽部、合唱部、レコード部、邦楽部の九部となった(北タイ 昭16・9・17)。
 改組した札幌音楽協会の大衆への「指導」の中身は、『札幌音楽協会、昭和十七年度会務報告』(田上義也旧蔵史料)で総務部が報告する事業をひろうことでわかる。そして戦時下、札幌の洋楽界の動きが鳥瞰できる。
建国祭音楽会(二月十日、十一日札幌市公会堂にて)
海軍を讃へる音楽の夕(五月二十八日、札幌市公会堂にて)
海軍軍楽隊演奏(七月五日、豊平館前広場にて)
北海道文化協議会(八月三十日、三十一日の大政翼賛会主催に代表委員を出席せしむ)
札幌皇軍慰問会(同会の支持協力団体の一つとして代表委員を参加せしめ、その目的達成に協力す)
北海道音楽報国会(道内音楽団体と協力し十一月二十七日、札幌時計台講堂にて同会を創立す)
北海道翼賛芸術聯盟(本道に於ける文学、美術、音楽、劇と舞踊の芸術団体相協力して十二月二十三日札幌市公会堂に同聯盟を結成し、第一回公演を行ふ)

 また紀元二千六百年の紀元節では、豊平館南庭で札商ブラスバンドの伴奏のもと、「建国頌歌」を一万人で合唱する(北タイ 昭15・2・12)。北海タイムス社は、紀元二千六百年記念事業として、山田耕筰の中央交響楽団とテノールの奥田良三、ソプラノの辻輝子の大演奏会を催す。その折、紀元二千六百年の北海タイムス社の懸賞当選歌詞の「北海道歌」の作曲を山田耕筰に依頼している。演奏会当日は、「演奏者、聴衆一体の渾然たる斉唱」が行われる。「北海道歌」は、藤山一郎・二葉あき子によりレコードに吹き込まれる(北タイ 昭15・7・20)。十八年四月二日には、北海道新聞社、翼賛会道支部、札幌中央放送局、道翼賛芸術聯盟共催による「戦艦献納演奏会」が行われるが、この演奏会でもみられる「海ゆかば」「この決意」の歌唱指導のように、国民歌謡・軍歌の歌唱指導が戦時下のひとつの特色である。