昭和二十五年に計画し、実施を開始した「新規事業五カ年計画」を継続することが第二期高田市政の主要な課題であった。しかし、同年に施行された地方財政平衡交付金制度・改正地方税制が地方自治体の期待を裏切るもので市町村の財政はきわめて厳しい状況におかれた。そのため市長はこの五カ年計画を一年間延長する改訂計画を二十六年三月の市議会で提案しなければならなかった。昭和二十年代後半は、地方財政が非常に不安定であったため、全国的に財政赤字に転落する市町村が多かった。札幌市は赤字にならず「健全財政」を維持し続けるが、それでも多くの事業で計画通りの実施が出来ず、計画の再編、変更が行われた。
「新規事業五カ年計画」は二十八年度より一部改訂され、道路と下水道の事業を分離して、「舗装道路新設八カ年計画」(総事業費七億五〇〇〇万円)、「下水及び側溝新設改修一〇カ年計画」(総事業費七億三八〇〇万円)が策定された。高田市長は第二期目の市政の重点課題を、道路、下水道、住宅の三つの整備拡充に置こうと考えていたが、これらの計画実施率は二十九年度になっても、計画を下回っていた。財政事情の厳しさに加えて、同年の第九回国民体育大会秋季大会開催およびそれへの天皇皇后行啓幸のための計画外の新規道路と、六・三制実施と予想外の児童増加による計画以上の学校の新増築・改築が上記計画の実施を妨げていた(高田富與 続市政私記)。
戦後の物価上昇に対応して市職員の給与は適宜引き上げられてきたが、財政逼迫の状況下で、人件費の膨張を抑制することが課題となり、二十七年度に「行政事務簡素化」による定員減が図られた(審査係 昭26~27事務簡素化関係綴)。二十八年度より消毒所・火葬場・墓地・産業会館の使用料、平岸霊苑清掃手数料、市税固定資産の評価の引き上げがなされ、新聞には「値上げづくめの市条例改正」という見出しが踊った(道新 昭27・3・1)。二十八年には、革新系議員や札幌地区労働組合(地区労)の激しい反対、市長リコール運動の中(道新 昭28・4・24、5・16、6・9)、電車乗車料金を値上げし、翌年には水道料金を値上げした。このように、第二期高田市政は市財政の収入を確保するのに汲々(きゅうきゅう)としていた。二十九年度予算について政府は緊縮財政政策を取り、地方にも行財政整理徹底断行・財政規模圧縮を要求した。札幌市は経常経費を節約し、緊急の新規事業のみを施行するほかなかった。
それでも、この時期に市立病院、保健所、北海道産業会館、円山動物園、円山スポーツハウス、保育所などが新築、増設され、交通事業や上水道事業の拡張がなされた。三十年三月には、琴似町、札幌村、篠路村の合併を行い、人口が四〇万人を突破、面積も二八七・六六六平方キロメートルと従前の倍になった。都心部は近代的なビルが建ち始めた。また二十九年六月には米軍が真駒内キャンプから引き揚げている。札幌市がしだいに変貌を遂げ始めた時期であった。