戦後一〇年を経て日本の工業生産は戦前水準にもどり、経済成長が軌道に乗り始める。昭和二十九年には地方財政平衡交付金から地方交付税による地方財政制度が確立する。札幌市においても、新規事業が次々と実施されていくようになる。
二十五年からの「新規事業五カ年計画」は中途で改訂を余儀なくされ、二十八年からの「舗装道路新設八カ年計画」、「下水及び側溝新設改修一〇カ年計画」も完全な実施を見たわけではなかった。しかし、二十九年より「小中学校教室難解消五カ年計画」が実施され、翌年には「水道拡張工事六カ年継続事業」が開始された。「下水及び側溝新設改修一〇カ年計画」は見直され、三十四年からは「下水道一〇カ年計画」が実施に移される。この時期以降こうした個別分野ごとの事業計画が立てられ、実施がなされていった。
三十三年七月五日から八月三十一日にかけて北海道・札幌市・小樽市によって共催された北海道開発大博覧会は、札幌市の都市施設建設の大きな契機となった。中央卸売市場が同年に竣工し、博覧会会場として物産館・工業機械館などに使用された。博覧会直前の六月には藻岩山観光自動車道路・ロープウエーが完成し、観光客で賑わった。同年には市民会館も改築がなり、交通局庁舎、藻岩第二浄水場、市立札幌病院本館も新築された。前年八月にはテレビ塔も建設されている。博覧会関係市道と道開発局による国道・道道の舗装が大きく伸張した。
この前後には、屎尿処理場、保健所、児童会館、養老院の新設、増設がなされ、多くの新規事業が進捗を見た。また、小中学校の新増築もなされ、三十三年四月には市立旭丘高校が開設された。しかし、それでもたとえば三十二年四月には小学校の教室難が深刻化し、一一校で二部授業が行われざるを得ない状況であった。札幌市の人口は、二十五年からの五年間、三十年からの五年間でそれぞれ一〇万人以上増加していた。札幌市は急増する人口増にたえず追われながら都市施設の建設を進めており、個別事業計画はたえず見直しを迫られた。
三十年三月に三町村の合併があり、また都市の急成長が今後も予測される中、同年七月一日、市長の諮問機関として札幌都市計画協議会が設置された。二十三年の臨時振興委員会の答申や二十六年に発足した札樽経済協議会の『札樽地区工業地帯調査報告書』(昭29)があったが、その後の時勢の進展や新市域も含めて都市計画を再検討し、「わが国北方の大都市」実現に向けてのより具体的な都市建設構想を樹立することがその目的であった。構成員は、北海道開発局、北海道総合開発委員会、札幌商工会議所、北海道大学教授、道土木部、札幌市、市議会、国鉄、北海道放送株式会社、北海道観光事業株式会社の代表など、三五人であった。同協議会は三年余りの歳月をかけて、三十三年十二月に「札幌総合都市計画」を策定した。昭和六十年を目標年度とし、人口一〇〇万人を想定して、周辺市町村を含めた都市計画区域、用途地域、街路・公園緑地・防火地域・空地地区・上水道・下水道の計画が策定された(札幌都市計画協議会 札幌総合都市計画策定編)。