三期一二年間にわたる高田市長時代の市議会は、多数の保守系議員と少数の革新系議員に大きく二分された会派構成が続いた。保守系は純与党的な会派(第一議員倶楽部)と高田市政に是々非々の態度で望む第二会派(鐘風会、公友会)に分かれており、第三期にはいくつかの変動が保守系議員内で見られたが、全体としてみると高田市長は多数保守系議員を与党に安定的な市議会運営を行い得たといえよう。市長原案が否決されたのは、昭和二十三年三月に提案された新学制実施計画案と三十年九月に提案された札幌振興株式会社設立案の二回のみであった。しかも、前者はGHQ北海道軍政部の勧告により翌年に市長原案が認められ、後者も三十二年三月の市議会で株式会社札幌振興公社として復活、可決された。
高田市政は厳しい財政事情の下、地方財政・都市経営に明るい原田與作を助役に据え、堅実な財政運営を続けた。これについて、使用料・手数料、市バス市電の運賃の値上げなどによる、大衆負担に依存した財政運営であると厳しく批判する声が革新系市議からしばしばあがった。高田市政一二年を回顧した北海道新聞の連載記事「高田市政一二年①~⑤」(道新 昭34・2・21~27)は、高田市政は黒字財政維持という点で自治庁では優等生扱いを受けているが、市立養老院設立、市営国民健康保険制度導入では道内他都市に大きく遅れ、厚生福祉はあまり進展していない、市電では二十八年の利益が一億三〇〇〇万円にも上りながら、小学校給食室の建築では半分を父母に負担させ、福祉事務所や保健所も冷遇を受けているなどと言い、「企業性」よりももっと「公共性」が必要という評価を下している。一方で同記事は与党市議や企業家の「明るい街づくりに成功した」、「限られた財政の中でよくやった」という声も紹介している。
高田市政は、上原市政の都市建設構想を受け継ぎ、昭和二十年代半ばに「グレートサッポロ」を目標に掲げた。だが、第一期は戦後対応・復旧に追われ、第二期に入って個別事業計画を策定したが財政困難や人口の急増で完遂しなかった。第三期になってようやく都市建設事業が進捗を見始め、三町村の合併も果たしたが、基本的な都市基盤整備に追われたのが高田市政の一二年間であった。制約の多い市政運営を強いられた高田市長の市政観は、「市政とは当たり前のことを当たり前にやること」というものであった(続市政私記、道新 昭32・1・5)。しかし、その一方で、より本格的な都市建設構想である総合都市計画を作成するなど、拡大を続ける次の時代の札幌市の骨格を準備した時代でもあった。