二十九―三十年度は「地方財政危機の時代」といわれ、道内市町村も二十九年度決算で赤字団体は一二市一三〇村に及び、赤字総額は市の分のみで八億九〇〇〇万円にのぼった。その原因は、歳入面では市税や地方交付税が減少したのに対して、人件費や失業者の都市集中で社会労働費が膨張したことにあった(道新 昭30・7・4)。しかし札幌市は、予算執行上の困難はあったが、財政赤字の計上による「地方財政再建促進特別措置法」(三十年公布)の適用を受けずにすみ、自治庁から「地方財政の優等生」と呼ばれた(道新 昭34・2・21)。市はこれ以降都市化=市街化の拡大に対応するため、教育と道路事業、さらに都市計画事業を本格的に進めていく。
表1の一般会計の推移をみると、市税と国庫支出金、特に前者の急速な伸びに支えられて、教育費(学校営繕費)、保健衛生費(清掃事業費や下水道費)、そして土木費が順調な増額を示している。
しかしその反面、市は人口急増に伴なう新たな財政問題を抱えることになる。すなわち、当時人口増加の六割を占めた転入者は、当初は税収をもたらさず、しかも市の生活保護世帯は年間人口増加率五パーセントをはるかに超える三五パーセントの増加、失業対策労務者は一一パーセントの増加を示しており、そのため学校、道路、下水道など社会資本の基盤整備が後手に回りがちとなったのである(道新 昭31・6・21)。
三十年代の市街地拡大の先鞭をつけたのは、三十年三月の琴似町・札幌村・篠路村の合併であった。これら三町村合併に伴って発生する市の財政負担に関する二十九年十一月時点の市の方針は、合併後の各町村の学校、道路橋梁等あらゆる臨時事業は札幌市との均衡を保持し、その経費は二十九年度に各市町村が歳入を手当して実施できる事業費を下回らないというものであった。そして三十年度における市の新たな負担すなわち「持出し」額は、三町村の合計で二三〇〇万円と算定された。ただこの金額はこれら三町村の希望総額九七〇〇万円を大きく下回っており、当年度の本格的な予算編成に向けて市と各町村との折衝が続くことになった(道新 昭29・11・26)。
教育費は、表5では戦後のベビーブームで生まれた世代が就学し始めた三十年代の前半ではほぼ二〇パーセントを維持して最大の予算費目となっている。すでに市の教育委員会は、二十九年度に児童の増加に伴う小学校の増改築、高等学校の新築など総額三億二〇〇〇万円を要求していたが、翌三十年度予算では、学校新増設費・改築費で二億六三〇〇万円を計上した(道新 昭29・11・8、30・3・3)。結局同予算では、小学校の新増設・改築費が大きく伸び、臨時事業費総額八億六〇〇〇万円の三二パーセントが教育費で占められたため、土木費のうち舗装道路の新設、下水道および側溝の整備の新規事業は前年度より縮小を余儀なくされた(高田富與 『続続市政私記』)。
三十一年度の予算編成時には、市議会で当年度中に小学校の「二部授業」の解消を図るべく学校建設費の拡充を図ることが付帯決議された(道新 昭31・3・18)。さらに三十三年度の予算委員会でもこの問題が論議され、市側は校舎の新増築によって来年度に解消を図るとした(道新 昭33・3・14)。しかし三十四年になっても市内の一部の小学校では、一学級六〇~七〇人の学級定員をもち、「二部授業」も実施されていた(道新 昭和34・1・22)。
土木事業も二十年代後半に引き続いて、予算編成上の重要な柱となった。三十年度の予算編成を控えた二十九年十月に市が発表した「編成大綱」では、三町村の合併を控えた各種行政費の増加と、デフレ政策の浸透による歳入頭打ちを前提にした徹底的な緊縮方針が明記された。ただ市民生活に直結する臨時事業については、道路の建設改良、学校の増改築、下水道の整備に重点を置くことになった(道新 昭29・10・26)。
三十一年度予算でも、道路整備と下水工事に重点が置かれた。すなわち、当年度の予算編成方針には、前述の「道路舗装八カ年計画」に加えて、「下水道改修十カ年計画」を重点に、緊急度の高いものから予算に盛り込むことが明記された。また主な臨時事業費としては、豊平三条線、北一条通、茨戸街道などの街路拡幅工事など土木費二億六八〇〇万円があった(道新 昭31・2・11)。
道路舗装については、先に述べたように、二十八年度に「八カ年計画」を策定し、発足当初は計画を上回る実績を示したが、三十年度までの三カ年での計画総延長一万三七〇〇メートルに対して、舗装実施は八四〇〇メートルで達成率は六一パーセントであった(道新 昭30・11・20)。