三越百貨店の中で初めて結成された札幌支店従組の争議は、二十一年四月の臨時大会で本社取締役社長宛の要求事項を決議し、十五日までの回答を求めて支店長にこれを提出したのが発端となった(道新 昭21・4・17)。ところが、声明書を店頭に張り出し経営管理に入った十七日午後、二十日までに全館明け渡すようにとの米進駐軍の接収命令が突如として出された。米軍宿舎とするためであった。組合は十八日から食堂や売場を閉鎖し、進駐軍に対して新店舗斡旋の嘆願書を提出する一方、「争議中ナルコトヲ認識ニ努メ声明書ノ写シノ手交ト併而失業防止ノ為メ新店舗ノ急速ナル斡旋ヲ懇請」。その結果「新店舗決定ヲ速カナラシメ」、「二四日建物明渡シ期限ニ対シテ多大ノ温情アル取計ヒニヨリ其ノ後数日出入ヲナス便宜ヲ得」て、先に進駐軍が接収していた当時大通西二丁目の豊平館と市公会堂(のち市民会館)が貸与されることになった(資料北海道労働運動史)。移転作業に、「かつては商売敵の丸井百貨店と帝国繊維札幌工場の従業員組合から『同志の窮状みるにしのびず』と百名づゝの応援隊が駈けつけ」、「資本家が覚醒するまで行商でも、露天でもやつて闘ひ抜くと百三十名の従業員は意気軒昻」であったという(道新 昭21・4・23)。丸井札幌支店(昭23本店)にまだ組合はなく、店内には、建物を接収された札幌逓信局が同居していた。三越の経営管理が解除されるのは、戦後復活第一回メーデー集会後の五月四日のことである。