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教育委員会など公職への進出

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 二十五年十一月十日、第二回目の北海道教育委員会委員の選挙が行われた。定数三人に五人立候補したが、社会党公認で唯一の女性候補水島ヒサは、四二万四一一五票と全国最多得票で、同じ北教組推薦で二位となった候補を二〇万票近く引き離し圧勝した。投票率は全道が前回をやや上回る五〇・七パーセント、男五三・八パーセント、女四七・五パーセント、札幌市は下回って三一・八パーセント、男三四・一パーセント、女二九・六パーセントである。
 『道新』は十二日夕刊に水島の写真と保護者の教育費の負担軽減、男女共学達成などの抱負を大きく紹介し、勝因を「前回選挙に敗れた夫君宣氏の雪辱戦という意気込み」や一八年間の教壇生活によるものと分析した。翌日の新委員の紙上座談会では、「君が代」に代わる新国歌の作成や、教員の待遇改善なども主張している。三十一年まで六年の任期中に二回委員長を務めた。水島は郷土史家として著名な河野常吉の長女で、東京女子高等師範文科卒業後、母校の庁立札幌高女や、カトリック系藤高女に勤務した。『札幌市史 文化社会篇』(昭33)にある「女性文化」の一章は、教育委員を退いて道議になるまでの間に関わった初の札幌女性文化史である。
 教育委員は三十一年から任命制となり、道教育委員には四十三年まで鈴木ヨシ(藤女子大教授)、毛利昭子(北海道婦人団体連絡協議会会長)、関文子(大学婦人協会)が就任した。また札幌市の教育委員には三十一年から三十八年まで、戸津夫佐子鶴田美代(共に家裁調停委員)が四年ずつ任命された。
 労働省婦人少年局が編集した『婦人の歩み30年』には、任命・委嘱による委員等で女性進出の多い公職として人権擁護委員、保護司、都道府県教育委員会委員、社会教育委員、民生委員・児童委員、家庭裁判所家事調停委員があげられている。その中で三十五年に女性の比率が二桁に達したのは、教育委員会委員が一六・三パーセント、民生委員が二三・一パーセント、調停委員が二四・八パーセントであった。二十五年の「公職にある婦人の現況調査」で札幌市(全道)は、市議会議員三(七)、民生委員二三(六〇八)、道社会教育委員二(五)、家裁調停委員七(一九八)の各人であった(婦人日常の友)。
 札幌市では十四年七月、人事調停法が施行された時初めて調停委員に女性八人が任命された。人事調停委員五〇人中、男性は現役軍人八人、弁護士六人を含む四二人であった。二十二年の民法改正に伴い人事調停法を廃止して家事審判法が制定され、翌年施行時の調停委員は弁護士二九人(三十三年女性として初めて広井喜美子が加わる)、一般男性四八人、一般女性一二人であった。二十五年の名簿には、人事調停委員から継続の更科駒緒らに、安倍登貴、水島ヒサらの名が加わっている。
 二十五年に委員の研鑚と親睦を図る目的で、札幌家庭裁判所調停懇話会(のち家事調停協会)が結成された。五十五年に会長になった高倉ときは、初期には週二回も裁判官から家族法・家事調停法の講義を受けた回想を寄せている。調停は男女ペアで行うのが原則で、女性委員の負担は重く、法的知識も貧しいからと学習活動は女性が中心となって推進した。敗戦という犠牲をはらって実現した「家制度の廃止、両性の本質的機会均等を掲げた新民法は魅力あるもの」だったという(創立三五年記念誌)。
 労働省婦人少年局は二十二年に発足して女性解放の役割を担ったが、初代局長山川菊栄の方針で地方職員室(昭27婦人少年室)の長は必ず女性をあてることとした。北海道の初代主任は上田歓子で、二十三年五月から三十年五月まで勤務した。上田は東京女子大英文科卒業後名古屋でキリスト教の伝道に従事し、結婚後来札してから友の会リーダー、戦後は大学婦人協会札幌支部長などを務めた。
 婦人少年局は「婦人労働・年少労働・婦人問題に関する調査、啓蒙、連絡調整」を柱に出発し、二十四年から精力的に女世帯、工場女子労働者、農村婦人の生活などの調査に取り組んだ。「女子の官公庁職員に関する調査」では北海道も対象になったが、報告は全国集計であった。上田は教育委員会法北海道普及本部機構・北海道労働審議会などの委員として各種の会合に参加し、民主主義・人権理念の普及や労働教育の振興を、まず課題として取り組んだ。