だが、昭和二十七年(一九五二)四月の講和条約発効後も、日米安保条約により米軍が駐留し、札幌市近郊では、豊平町真駒内に近い石切山の射撃場のほかに西岡、滝野に月寒演習場が設定され、有明にも豊平演習場が設定され、土地を接収された農家は一八五戸・七三六五町歩にも達した(表1、図1)。
図-1 昭和27年,駐留軍に接収された豊平町(現札幌市)演習地
(道新 昭27.9.13より作成)
開拓農家のなかから強硬な反対運動が起こり、二十八年八月二十九日には、全道労協、農民連盟、開拓連の代表が札幌に集まり、演習地反対道民大会を開催した。二十九年九月二十四日、キャンプクロフォードは日本政府に返還され、新たに自衛隊施設となった。
この間の二十五年十月十三日、政府は、レッドパージと符号を合わせるかのように、公職追放者一万九〇人の解除を発表した。GHQの軍国主義者公職追放・超国家主義団体解散指令により、二十一年から二十二年に公職を追放されていたものである。うち北海道関係者は五〇〇余人で、十一月には旧軍人の追放指定者も解除された(昭27公職追放令廃止により他の指定者も解除)。翌二十六年、政治状況や社会風俗の復古調を皮肉る言葉として、読売新聞が連載記事の中で「逆コース」を使って以降、それが一種の流行語になった(自由国民社 現代用語の基礎知識 昭29)。
道内出身の戦中政治家や高級官僚も復活を図り、翌二十六年四月の道知事選挙に、黒沢酉蔵が田中敏文知事再選阻止のため立候補した。黒沢は大差で敗れたが、やがて北海道酪農界指導者としての地位を不動にした。二十七年の総選挙では、戦前内務省警保局長も歴任した町村金五と、大本教解散の指揮をとった薄田美朝の二人の元警視総監が、一区で当選した。町村の周辺には、元道庁警察部特高課長をはじめ警察畑の関係者が「ぞくぞく」と集まってきたという(奥田二郎 戦後道政史)。二区では松浦周太郎、三区で追放直前に運輸大臣を務めていた平塚常次郎、四区で南条徳男などの戦中組も復活した。さらに町村は、三十四年の北海道知事選挙で社会党の横路節雄を破って当選し、同年の道議会議員選挙では、定数九八人のうち、自民党が前回より一二人増の五〇人が当選して、道議会で初めて過半数を占める第一党となった(鈴木英一 戦後道政史)。
元特高関係者のほか、教育界でも公職追放者が復活し、北海道教職員組合に対抗する組織的活動を開始したり、戦時中に校長であった者の一部からも、教育勅語や紀元節の復活運動をはじめる人物などが登場した。
一方、新興の暴力団も輩出し、競馬、競輪(昭25年豊平町で開催開始)に関与し、パチンコ店や飲食店の経営に干渉した。とくにパチンコ店には、資金提供から景品買いに至るまで、暴力団関係者が手をのばしていた。三十一年三月に博徒の「親分」が拳銃で射殺された事件をきっかけとして暴力団抗争が多発し、終結後の三十年代後半になると、炭鉱暴力団の流入による新たな抗争が激増してきた。道警は、三十五年から「フクロウ部隊」を薄野に送り込んだが、思うようには効果があがらなかった。