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住宅問題

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 食と衣生活に比べて住宅事情の改善は遅れていた。経済や社会情勢の回復とともに札幌への人口集中化が続き、戦後、公営・民間を含め約一万三〇〇〇戸の住宅が新築されたにもかかわらず、二十八年九月になっても住宅不足数は一万八三八七戸にのぼった(昭31要覧)。
 三十年に日本住宅公団が設立され、本格的な住宅政策が開始された。三十一年ころから大きな変化が現れ、都心部にビルラッシュが始まり空き地が減少、地価が上昇したため、住宅新築は郊外の琴似・白石・東苗穂・鉄東・北光地区に拡大し、農地転用と区画整理事業が相次いで行われ、併せて農地の値上がりにも発展した(道新 昭31・8・24)。三十一年十一月には白石町本通り(現白石区)の畑が住宅街に変貌し、以降は市街地が郊外へと伸展した。一方、政府と住宅公団の融資・分譲の奨励により、三十二年には社宅アパート建築が三〇社四二棟と増加し、鉄筋三・四階建てにスチーム暖房付など建物の中高層化も始まった(道新 昭32・9・14)。三十三年に、日本住宅公団が道内最初の勤労者向け賃貸アパートを薄野(南6西4)に店舗付で建設し、豊平町(現豊平区)平岸に木の花団地(七三〇戸)を建設した。ダイニングキッチン・ステンレス流し・浴室・水洗便所・ガス・上下水道完備の家族向け住宅は、家賃七〇〇〇円前後と庶民にとって高額ではあったが、家族向け公団賃貸アパートのはしりとなった。低所得者層には依然厳しい状況で、三十二年、市の調査では市内一一万世帯のうち、間借りは二万八〇〇〇世帯、そのうち一万世帯が住宅に困り、市営住宅の新築(毎年九六戸)に対する申し込み数は、三十一年一二〇〇人、三十三年一五五〇人と増加していた。
 住宅不足の緩和策として毎年建設している市営住宅も、資金・敷地の制約により計画どおりの進捗は困難であったが、三十四年に国鉄用地(現厚別区)を買収し、札幌市最初の大規模団地・ひばりが丘団地を計画し、同団地内に三十四年度市営住宅一五〇戸、札幌振興公社などの分譲住宅八〇戸を建設した。さらに三十四年度から四十年度にかけて、かつての進駐軍(昭27・4・28以降駐留軍)家族の真駒内居住地区に、道営真駒内団地が造成され、北海道で初めての大規模な郊外計画住宅地として戸数五〇〇〇戸、公園・学校・商店街を配置した大住宅団地が誕生した。以降の大規模団地は表26にみられるように、人口増加とともに周辺市町村と連携し拡大した。
表-26 札幌市・周辺市町村における大規模団地昭和50年10月1日現在
所在・団地名計画概要居住人口
備考
事業主体面積
ha
世帯数
人口
事業年度
市内真駒内団地北海道166.75,00020,00034-4025,280入居完了
〃 ひばりが丘団地札幌市13.89945,00034-418,050 〃
〃 青葉町団地 〃69.03,20012,00037-4311,292 〃
〃 副都心団地 〃30.51,0504,00042-523,611入居中
〃 もみじ台団地 〃242.09,00032,00044-5412,966 〃
江別市大麻団地北海道213.57,20027,00039-4421,822入居完了
広島町北広島団地 〃440.88,00031,00045-668,537入居中
 〃 西の里第1・第2道住宅供給公社29.36852,26044-491,631 〃
石狩町花畔団地 〃232.06,00023,60045-541,128 〃
 〃 新札幌団地民間344.87,00023,00040-536,323 〃
『札幌市の人口と住宅 昭和50年度国勢調査結果報告書』より作成。
広島町は現北広島市,石狩町は現石狩市をさす。

 住宅の構造についてみると、二十年代後半にコンクリートブロックや鉄筋コンクリート造アパートが出現したが、三十年に道立寒地建築研究所が設立され、鉄筋コンクリートブロックを使用した寒冷地用モデル住宅を建設し、やがて個人住宅に広がっていった。防火性・断熱性機能・機密性ともにすぐれたブロック住宅の普及により、従来のすきま風が入る木造下見板造りの住宅で、ストーブを真っ赤になるほど燃やしながら暖をとるといった住まい方が一変した。変わって図4のように家族団らんの居間を中心にして、左右に部屋を配置した間取りになり、四十四年までブロック住宅が中心となり、赤や青の三角屋根が札幌の住宅の象徴ともなった(越野武 住その時代 札幌生活文化史〈戦後編〉さっぽろ文庫別冊)。そして四十五年になると第一次民間高層マンションブームが訪れ、新しい集中暖房式の都心型住居スタイルが次第に普及し始める。

図-4 戦後北海道の住宅で最も典型的となった居間中心のプラン。
住宅公社建売住宅(昭32) 『札幌生活文化史〈戦後編〉』(さっぽろ文庫・別冊)

 住宅不足は次第に解消の方向に向かい、三十八年に不足数一万五三〇〇戸であったのに対し、四十三年には不足数が八四七〇戸に減少した。四十年代後半は所得水準が向上したうえ、各種機関による住宅融資制度の普及も反映して、民間建設が著しく伸びた。一方では低所得者層と勤労者向けの公的援助住宅が六〇〇〇戸建築されたことから、五年後の四十八年には住宅総戸数の方が普通世帯数(住宅需要世帯数)を上回り、量的には一世帯一住宅が満たされる結果となった。しかしながら老朽住宅や過少過密住宅が含まれており、質的な面においては住宅不足の解消には至らなかった(昭48市勢概要、札幌市の人口と住宅―同前)。