北海道美術協会は大正十四年(一九二五)に結成され、十月五日から十八日まで、中島公園内にあった農業館において第一回展覧会が開催された。搬入点数五三六点、入選九二点──これが、北海道初の公募展である道展のスタートであった。目的は「本道ニ於ケル美術ノ向上普及ヲ図ル」ことで、第三回展からは長官賞、第七回展からはフローレンス賞等を設けたほか、五回展では旭川、六回展では函館への移動展も行った。以後、北海道唯一の公募展として道美術界をリードし続けたが、戦後間もなく内部分裂という事態が生じ、改組を余儀なくされた。
道展の分裂は、前述したように道新の提唱によって全道美術協会が結成され、有力会員の一部が道展を去ってこれに合流したことから始まる。これが出品層にも影響を及ぼしたため、道展は相当の打撃をうけた。さらに、二十一年七月に本間莞彩を中心とする日本画部の会員多数が独立して北海道日本画協会を設立した。道展は結成当初から洋画が主流で、日本画部会員はそうした「洋画部に支配されている形だった道展を離れ」(美術史)たのである。この二つの事情により、道展は事実上分裂した。
二十一年十二月、北海道美術協会は全会員、会友宛てに、道展改組の決意を記した文書を送付した。内容は「道展は確固たる会員による組織によって目的を果たした」いので、「貴下の道展に対する次の御意志を至急御明示下さ」いというものであった。すなわち、
の三点である。改組後の会員は小山浩子、高木黄史、今田敬一、能勢真美、繁野三郎等三七人となった。その後、三カ月の準備期間をおき、二十二年三月九日に新陣容による初の道展総会が開かれた。総会では、改組にいたる経過報告、会則の再検討、道展振興に関する具体策の協議、二十二年度のスケジュール等について話し合われた(道展四十年史)。
そして、二十二年十月二十一日から二十五日にかけて、改組後初の道展が開催された。搬入点数三一四点、入選一三六点であった。
その後、道展は再建を目指して活発な美術活動を続けた。二十二年には、毎年秋に行われる公募展とは別に、会員・会友および招待作家の展覧会である春季道展が開催されたほか、北海道水彩画展がこの年から道展の事業とされ、道展作家水彩展として発足している。二十三年には小学生、中学生を対象としたこども道展等を開催し、二十五年十月に第二五回記念道展を開催するに至った。以降、三〇周年記念道展、三五回記念道展と順調に回を重ねていき、四十年には『道展四十年史』を記念出版した。これにより、大正十四年に北海道美術協会が結成されてからの道展の流れが、かなり詳細に把握できるようになった。