二十三年から三十三年まで毎年開催された北海道労働文化祭(道労政部主催は三十年まで。以降、財団法人北海道労働文化協会が中心となる)は、道内一四地区で予選を行い、札幌での全道芸能大会に臨むというもので、「労働者の理性と情操を高めるような文化的なもの」に労働文化賞(団体賞、個人賞、脚本賞)、奨励賞が与えられた。二十五年九月の札幌地区参加団体は、帝国製麻、興国印刷、日本発送電支店、国鉄苗穂工機部、食糧営団、札幌鉄道局、北農、全逓、中小企業労組などの労組演劇部、同好会である。札幌ではほかに、道庁、農林中央金庫、道信漁連、市立札幌病院などが活動し、上演作品は団体リーダーの志向等によって傾向を異にした。田中千禾夫、木下順二といった時代の作家作品のほか、オリジナル作品が賞を競い、苗穂工機部は股旅物中心で知られた。二十四から五年になると、労組と直結したイデオロギー偏重から脱し、軽演劇やメロドラマを取り上げるところもでてくる。発表の機会は上記のような各種演劇祭、コンクールのほか、労組が主催する家族慰安会など職場内が中心だった。
またこの時期には、地域劇団と職場演劇、及び中央をつなぐ、いくつかの連絡組織が活動した。
二十一年四月に発足した「札幌演劇懇話会」(前出)は、同年十月「札幌演劇文化協会」と改称、翌二十二年三月には機関紙「演劇文化」を創刊している。その後、再度改称し「札幌自立劇団協議会」となる。月刊「演劇しんぶんHOKKAIDO」は、札幌自立劇団協議会と、昭和二十三年二月、日本新演劇人協会の支部の形で結成された「北海道新演劇人協会」(前出)の合同機関紙の形で発行されている。プランゲ文庫所収の同新聞、二十四年八月十一日発行の創刊号には、戦後間もなくの来道劇団として多くの人が記憶している新協劇団『破戒』全国公演の総括や、前進座『真夏の夜の夢』来道予告、札幌演劇研究所入所者募集などの記事があり、当時の熱気が伝わってくる。
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写真-13 「演劇しんぶんHOKKAIDO」(創刊号,1面と4面) |
演劇に関する情報は労組関係でも取り上げられ、北海道労働協会が発行する週刊新聞「北海労働」には、新協劇団の宅昌一による「演劇の手引き」が連載され、演劇づくりの現場で活用された。
一時は道内で数十を数えた職場演劇サークルは、三十年以降、急速に消滅に向かう。その理由として、レッドパージ(昭24)等によって労働組合運動そのものが活力を失い、リーダーを失ったことが原因とすることも可能だが、北海道においては、二十八年の労働文化祭が「かつてなき盛会」と呼ばれたことを考えれば、むしろ職場演劇のなかからより成熟した演劇的志向が育った結果、職場内にとどまらず地域一般を対象とする劇団活動へと発展的に解消した、とするとらえ方が、少なくとも札幌においては妥当であるように思う(「北海道演劇史稿」巻末の座談会Ⅱで、佐々木逸郎と鈴木喜三夫がこの点について論じている)。
札幌市役所演劇部に一〇年間在席し、三十三年「劇団にれ」を創設した関口英一は述懐する(昭和二十年代の札幌の演劇)。
いわゆる社会主義リアリズムというのが支配的で、(中略)民主的に考えれば結末はこういう方向でなければおかしいのではないか、結論がそうなるのはけしからぬ、とかそういうことだけをおしつけるような態度に反発を感じていました。(中略)(劇団にれ設立に当たって)あえて広く市民に呼び掛ける形で公募しました。高度成長前夜の産業界は流れ作業の大量生産化指向で、人間が目的でなくて、なんで手段なんだという思いが強くあったものですから、人間性回復のドラマを、を旗印にしたんです。