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文化団体と連絡組織

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 昭和三十三年、札幌市民会館新築や、HBCにおけるテレビドラマ自社制作開始など、札幌の演劇にかかわる新しい動きがあった。これらに関連していくつもの文化団体、連絡組織が誕生し、目的や役割の重複、運営基盤の差異を含みながら、交錯して活動を展開する。
 三十三年七月、HBC(北海道放送)による北海道演劇協会が設立された。道内八カ所に支部を設けるなど大きな構想で組織的枠組も整い、十月には「北海道演劇月」を開催したが活動は定着しなかった。しかしこの動きが、前年に設立された札幌演劇協会(札演協)に刺激を与え、前記合同公演への道筋を拓いたともいえる。三十四年以降は、前記「さっぽろ市民劇場運営委員会」が、市内の各芸術ジャンルを網羅する連絡機関として機能する。
 北海道文化団体協議会(文団協)は、三十二年に六回の設立準備会をもち、三十三年六月設立総会を行った。三十五年十月には、文団協文化集会アトラクションとして、札演協が協力して『女の平和』(竹岡和田男作・五條彰演出)を上演している。三十九年九月には、札幌文化団体協議会(札文団協)が発足し、道文団協と連携して芸術団体の相互交流、行政や市教委による文化行事への協力、文化政策への要望の窓口として活動を展開する。
 札幌を中心とするこれらの動きとは別に、道内各地域で職場演劇から発展した活動が継続され、そのなかから全道的交流を望む声があがった。労働文化祭への補助金制度廃止等によって、三十二年十一月夕張で開かれた演劇祭を最後に全道的演劇祭は途絶えていた。その復活を願う、劇団こぶし(砂川)の黒沢由紀夫等は、小樽「土曜座」との交流公演など準備活動を経て、三十七年十二月、全道の演劇サークルへ連絡組織結成を呼びかけた。三十八年二月、道内二八劇団と個人数名によって北海道演劇集団(道演集)が結成され、黒沢が理事長に就任し、十月、砂川で第一回北海道演劇祭が開催された。爾来(じらい)、広範な地域を結ぶ組織運営の困難や、組織の理念、存在意義についての検証、見なおしなど多くの曲折を経ながら道演集は演劇祭を継続し(現在は隔年)、来る平成十四年(二〇〇二)には四〇周年第二〇回演劇祭を札幌で開催する。
 道演集の第八回総会(昭和四十六年五月・札幌)で創設期からのメンバーである十日会(札幌)が脱退した。さらに同年十二月の第九回総会では黒沢理事長の大阪転勤による辞任や、新劇場の緒方、大地の佐藤嘉一等、主要メンバーの離脱が相次いだ。そして同じ四十六年秋、北海道演劇協議会(北演協)結成の趣意書が配布された。本山節彌(前述)を設立代表に、細田恵子(十日会)、梅津齊(風車・後述)等が中心となり、職場演劇、高校演劇、青年演劇など、道内の各分野演劇を一堂に集めた組織づくりをよびかけたもので、道文団協(前出)のなかに演劇の位置を確保し、四十五年から始まった北海道芸術祭(道教委主催)など文化行政への対応を視野にいれたものである。「演劇運動体として活動し、政治思想を持ちこまない」ことを趣旨として同年十一月発足し、二十年余にわたって永曽信夫(えいそのぶお)(俳優座養成所)を講師に招き「北海道演劇(指導者)講習会」を全道各地で開催した。平成十三年十二月、細田事務局長の逝去をもって解散。