ビューア該当ページ

終戦直後の状況

920 ~ 921 / 1021ページ
 映画行政の基本となっていた「映画法」はマッカーサー指令(昭20・10・16)によって廃止され、GHQは映画制作者に対し、制作に関する具体的な方針を指示した(道新 昭20・9・24)。信教、言論、集会の自由を含む自由主義的傾向の促進等、占領政策の基本方針に沿った映画制作の方針で、劇映画に関しては九項目、ニュース映画に関しては二項目があげられている(同前)。映画制作者は、制作を始める前に戯曲や脚本の要約を提出して許可を求めるよう要請された。脚本家は機会があるごとに民主主義的思想やテーマを推進するよう、GHQに勧められている(GHQ占領史)。
 終戦を迎えた昭和二十年(一九四五)八月十五日、この日から一週間にわたって全国の映画館が閉鎖された。戦争による映画館の焼失は、全国で五一三館(全体の四〇パーセントに相当)、道内の被害は少ない方であったが、釧路、根室ほか合わせて六館が焼失している。札幌にあった一一館は全て無傷であったが、その中で松竹座(南四西三)が米軍に接収され、「マックネア・シアター」という名称の下、アメリカ映画が進駐軍慰安のために上映された。この間、松竹系の映画の封切は、遊楽館と札幌劇場で行われている。
 休業明けの八月二十三日、映画会社はまだ新作を作れなかったため、直営の封切館でも旧作が上映された。この日の状況については、二十年十二月四日付の『北海道新聞』に詳しい。この日「娯楽に飢えていた」観客は、開場前から押し掛けて長蛇の列を作った。「上映される映画の内容がどんなものであっても問題でなく」、一時的な気休めを求めて客足は落ちなかったという。この頃上映されたのは、「伊豆の娘たち」「そよかぜ」「千日前付近」(松竹)、「花婿太閤記」「海の呼ぶ声」「狐の呉れた赤ん坊」「別れも愉し」(大映)、「北の三人」(東宝―のち、上映禁止)の八本で、中でも「狐の呉れた赤ん坊」が一番人気であった。十一月二十三日の祭日一日だけで、東宝映画劇場の延入場者は約一万二〇〇〇人を記録している。いずれも終戦前の最高番組よりも観衆が詰め掛けたため、映画界は異常な活況を呈した。

写真-15 日本映画のポスターに見入る通信隊・写真家のモートン・ミラー中尉