終戦を迎えた昭和二十年(一九四五)八月十五日、この日から一週間にわたって全国の映画館が閉鎖された。戦争による映画館の焼失は、全国で五一三館(全体の四〇パーセントに相当)、道内の被害は少ない方であったが、釧路、根室ほか合わせて六館が焼失している。札幌にあった一一館は全て無傷であったが、その中で松竹座(南四西三)が米軍に接収され、「マックネア・シアター」という名称の下、アメリカ映画が進駐軍慰安のために上映された。この間、松竹系の映画の封切は、遊楽館と札幌劇場で行われている。
休業明けの八月二十三日、映画会社はまだ新作を作れなかったため、直営の封切館でも旧作が上映された。この日の状況については、二十年十二月四日付の『北海道新聞』に詳しい。この日「娯楽に飢えていた」観客は、開場前から押し掛けて長蛇の列を作った。「上映される映画の内容がどんなものであっても問題でなく」、一時的な気休めを求めて客足は落ちなかったという。この頃上映されたのは、「伊豆の娘たち」「そよかぜ」「千日前付近」(松竹)、「花婿太閤記」「海の呼ぶ声」「狐の呉れた赤ん坊」「別れも愉し」(大映)、「北の三人」(東宝―のち、上映禁止)の八本で、中でも「狐の呉れた赤ん坊」が一番人気であった。十一月二十三日の祭日一日だけで、東宝映画劇場の延入場者は約一万二〇〇〇人を記録している。いずれも終戦前の最高番組よりも観衆が詰め掛けたため、映画界は異常な活況を呈した。
写真-15 日本映画のポスターに見入る通信隊・写真家のモートン・ミラー中尉