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各層への浸透

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 占領期のさなか、昭和二十三年九月に〝三重苦の聖女〟といわれたヘレン・ケラーが来道し、札幌でも公会堂で「ヘレン・ケラー・青い鳥」と題して講演をした。一方、カトリックでは、二十四年六月に、キリシタン時代の宣教師フランシスコ・ザベリオ(ザビエル)の〝聖腕〟を札幌に迎えた。これはザビエルの渡来四〇〇年を記念する行事の一環であった。遺体の一部が分骨、保存されていたローマから、ザビエルが布教旅行に使用していた十字架とともに日本にもたらされ、各地で奉迎式が催された。札幌でも〝聖腕〟は、六月二十五日に札幌駅へ到着し北十一条教会に安置され、翌日、北十一条教会から奉迎式の会場である藤学園まで約六〇〇〇人の信徒の行列とともに運ばれた。ミサのあとは四百年記念式典となり、高田市長の祝辞などがあった。〝聖腕〟はその後函館に向かった。ヘレン・ケラーの講演会も、一連の〝聖腕〟奉迎行事も、伝道集会や教会内の行事とは異なり、市民一般の関心をよび、またそのに触れるものであった。占領期は、またキリスト教界の活動が教会外に拡張された時期でもあった。

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写真-9 奉迎されるザビエルの〝聖腕〟

 とくに、戦前、広汎には見られなかった活動として、各職場・病院・地域などへの浸透がある。たとえば札幌教会(日本基督教団)は、札幌市立病院長の依頼で毎週一〇〇余人の同病院看護婦のために、キリスト教講座を持ったほか、北大病院、鉄道病院、琴似療養所及び首脳部に同教会員が多かった酪農公社(かつての酪聯、現雪印乳業)では、毎月一回の聖書研究の講座があって、牧師がこれに出張していた(札幌教会百年の歩み)。北光教会も二十三年頃、日本通運、円山病院、国鉄苗穂工機部、札幌第一高校(現札幌南高)、札幌電信局、札幌師範学校、女子医学専門学校、帝国繊維女子寮、市外では三井芦別炭鉱を出講先としていた。また北光教会では、医療伝道と称して栗沢村志文、月寒、啓明院、丘珠の外地引揚者収容所に赴いた。これは占領軍より薬品を受け、軍のチャプレン(従軍牧師)の夫人から車の提供を受けて行われたという(札幌北光教会七十年の歩み)。琴似療養所では、カトリック円山教会がカトリック研究会を毎週開いていた。琴似・白川(簾舞)の結核療養所には多くの教会が慰問とともに聖書研究会を組織しており、聖公会の札幌みすまい会衆、日本ルーテル教団の白川伝道所など教会組織に数えられているところもあった。このほか設立まもない琴似教会(現日本キリスト教会琴似教会)が中心となって、二十五年二月、第一回農民福音学校を北海道農事試験場倶楽部で開催した。
 聖書研究会が多くの職域・療養所などで受けいれられたのは、その勤務者・入所患者にキリスト教への関心が高かったからであるが、見逃せないのはその施設の管理者・経営者が研究会の開催を許容しあるいは積極的に牧師・司祭を講師に招請しようとしたことである。それらの職場では、キリスト教との接触、またその浸透がもたらす効果を、期待するところがあったのであろう。