[現代訳]

また言うことには、寛保壬戊八月の洪水は前代未聞であった、溺死する
ものはその数を知らず、城の中を舟で往来し、覚性公(真田家5代藩主真田信安
や后妃も船で開善寺へ避難した、開善寺滞
留中、満姫が病で亡くなった、誠に大きな変事とい
える、その後千曲川の川普請が行われ、寺尾村の西へ堀川を掘り、
千曲川本流から分水させた、そのため以後松代城は水難が無くなった、この分水の
策は小隼人(原八郎五郎)一生涯の大きな功績といえる、〔昔は千曲川は城のケイシャ
の前より向寺尾(東寺尾)と荒神
町との間を流れ、
柴村の裏へ流れていた〕分水の時は、城の構への川(外堀替りの川)へも水が多
くきた、神田川千曲川合流箇所の清須町末・馬喰町裏に
堀切といって舟渡しがあった、その近辺には舟頭の家もあり、
十河守衛(今は半蔵)、小幡糺らが投網をして仕
損じ、河に落ちて溺死した程の大川であったが、いつの間にか
今日のように水が少なくなった、その時は松代から
矢代宿への通路は勘太郎橋を渡り、まっすぐに行き
妻女山を越えて道があった、妻女山の東の麓に石の地
蔵があり、その辺りに家が四・五軒あり、四ツ屋村といった、
茶店はないけれど旅人は立ち寄り、休息の場所とした、この石の
地蔵が道の傍らにあり、前に書いたように妻女山を越えて
土口坂へかかり、雨宮・矢代へと向かう道であった、今日のように
岩野を往来することはなかった、今馬喰町裏は崩れ、
わく(河が陸に当たる水衝部)辺りから赤坂の渡しまでは一面川で、某
10歳の頃、妻女山の麓の辺に細い道を造り、そこから
岩野村へ向かい、矢代へと行き来した、ただし、歩行の往
来のみで、馬での往来は出来なかった、いつしか今は
道幅も広くまつすぐな道路となり、妻女山の道は廃され、
四ツ屋の家もつぶれて耕地になった、実に世の中
の変化のはげしいことは、覚えがない、