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間宿(あいのしゅく)です。3町ほど相対して宿をなしています。会田(あいだ)宿ヘ1里10町、反町村板場・鳥出を過ぎて会田の宿に至ります。このあたりは山間の小さな村で、みな風俗は質朴で堅実な人びとが多く、諸国から善光寺へ参詣する旅人が絶えることなく往来しています。栗の強飯が苅谷原の名物です。
鷹巣根の古城は、苅谷原から5、6町西の方にあり、むかしは海野小太郎幸継の5男、苅谷原五郎が城主でした。その後太田弥助という人物が居住しましたが、太田道灌の一族です(弟共3男ともいいます)。文明18年(1486)に鎌倉で道灌が討死のときに、信濃国に落ちて来て、小笠原に属し、大永3年癸未(1523)からこの城主です。700貫文を領し、小笠原家では一番大きいです。このあたりの16か村を領していて、武功の人物です。天文21年(1552)に、武田信玄の軍勢が小県(ちいさがた)郡から攻め入り、8月5日から合戦がありました。甘利左衛門配下の米倉丹後が策略をめぐらし、竹策をこしらえて城に攻め寄せたので、短期間に城際へ取り詰めると、城主はこれを追い払おうと、9度までも突いて出たけれども、後詰がないので堪えがたく、同13日未の刻(午後2時頃)に城を払って討ち死にして、ついに落城してしまいました。
(注)刈谷原城は、別名を鷹巣根城ともいい、鎌倉中期以降に海野氏の一族刈谷原五郎が築き、大永3年(1523)太田弥助資忠が守り、天文22年(1552)武田氏に攻略されて亡びたと伝えられています。このとき武田勢は竹束を数多作り、城中から放つ銃弾を防ぎつつ攻略したと「図会」に記されています。
刈谷原墜道の尾根から登る途中に空堀が3条あり、主郭の周囲の尾根や斜面に多数の帯曲輪や空堀が下方まで築かれています。ここからは会田地方や川手方面の山城が一望されます。