『松本市史』第2巻歴史編Ⅱ近世には、天保の飢饉について、かなりの頁をさいて紹介しています。以下、その部分を引用します。
天保の飢饉
凶作は貯えのない農民の生活を容赦なく困窮におとしいれた。凶作の翌年が平年作か、豊作の年でも、秋の収穫時までは食糧不足がつづく。ちょうど天保4年(1833)、5年がそうであった。4年が「大凶作(天明年より50年目)」(河辺家文書)、5年は「稲に股さき二務出る稲だいぶあり、三穂もあり、みなよく実のり、しいなすくなし」(赤羽家文書)という300年以来の豊熟の年であった。しかし、天保4年は、春からの冷気で雨が降りつづき、6月土用になっても単物を着ることはまれで、冬支度で暮らしていた(同前)。冬のような陽気であったという。米の値段は日増に高値となり、7月盆前は1両に8斗2、3升だったのが、盆後には5斗にはねあがった(所家文書)。5月中旬から8月にかけて、この年が大凶年の年になるなどとは誰も予想もしていなかったが、8月になっても冷夏で陽気はいっこうに回復しなかった。けっきょく、晩稲も実入りしないところが多かった。
(中略)
丸山角之丞が「違作書留帳」に、「おだやかにして世上静になる」としるすように、天保5年の暮れに人々はひと息つくことができ、正月をむかえた。6年はウンカが発生し、大被害をだした。神戸村では6月22日夜松明をたき、ウンカ追いをした。奈良井の鎮神社(塩尻市楢川)へ代参し、拝殿前の左右の砂盛の砂を田にまいたり、水口に鯨の油の串をさして虫よけをおこなった。
翌7年は雨の日がつづいた。7月の雨天つづきは稲の作柄にも大きな影響をあたえた。出穂中10日間雨降り、そのほかの日も曇り冷気で、27日になっても穂はいっこうにかたむくことはなかった。8月になると、北の大風や西風が吹き荒れ、西山は麓まで白くなり寒気は例年よりはやくやってきた。穀物相場の高騰に刺激されて、諸物価も高騰し食べ物が不足した。各地で盗人が横行し、「乞食」も多数はいりこんできたため、村の入口に番人をたてる村もあちこちにみられるようになった。農民が甲州あたりで騒動をおこし、諏訪まで押し寄せたとの風聞がたち、小俣村では小作人があつまって火を焚き騒いだり、「十月二十日晩、神戸原にあつまって大和又兵衛宅まで米無心に参る」などの落し文があったりして、世のなかが騒がしくなった。落し文は10月にはいってもつづいた。19日から20日にかけて小俣村の大和又兵衛宅へは役人が詰め、不穏なうごきにそなえるなど、ものものしい対応があったが、村内にはなにもなかった。11月に、麻績(東筑摩郡麻績村)・安坂(同郡筑北村坂井)で騒動がおきたとの風聞がたつと、こんどは神戸村で小作衆にたいして、地主層が小作値段の6割5分引き下げを約束したとの落し文があった(丸山家文書)。
穀物相場の高騰は翌8年になってもつづいた。米値段は1月から4月にかけて加速度的に高値となり、わずか半年で2倍となった。7年は長雨低温だったが、8年はそれとは反対に日照り凶年となった。とくに6月、7月は旱ばつで、畑作物に大被害をもたらした。
二子村や小俣村あたりでも行きだおれて餓死するものがあったという(同前)。
天保の飢饉は、人々に家存続のありかたを意識させるものとなった。しかし荒廃した農村は、角之丞が「元の如くに相成り兼る」としるすように回復することはなかった。天保の飢饉をへて、天保9年(1838)から農村復興をめざした松本藩の天保の改革がはじまる。