天正十四年(一五八六)十月、家康は大坂城の秀吉の下に出仕した。こうして家康との和議が完全になった中で秀吉は、真田昌幸小笠原貞慶・木曽義昌という信濃の三将を家康の配下に返すことにしている。既に見てきたように何れも天正十二年から十三年の半ば頃にかけて家康から離反、秀吉に従っていた者達である。秀吉としては、ここは譲れるものは譲って、家康との関係をよりゆるぎないものにしようとしたのだろう。これで昌幸らは秀吉の政権下で、家康の指揮下に属ずる大名となった。いわば与力大名の形である。

 翌天正十五年三月に昌幸と貞慶は、秀吉の下へ出仕したあと、駿府の家康の下へ挨拶に出向いている。しかし、秀吉は特に昌幸については、上杉景勝の与力扱いから外しただけで、実質的には直臣化したといってよい扱いをしている。この後も家康を全く介することなく、直接昌幸に指示を発しているのである。秀吉から昌幸に宛てた書状は数多く今に伝わっている。それに対し、これ以後の家康あるいは徳川方から昌幸宛ての書状類は全く見られないのである。