[解説]

検地仕法
松本市文書館 小松芳郎

 検地仕法について、『松本市史』(第二巻歴史編Ⅱ)を参考にしてみてみましょう。
 神戸村(松本市笹賀)の丸山角之丞がえがいたこの検地の絵図は、今井村(松本市今井)と古見村(東筑摩郡朝日村)との用水をめぐる紛争解決のために、幕府がおこなった天保5年(1834)の検地を説明した絵図です。
 鎖川(くさりがわ)用水に依存する今井・古見・小野沢新田(朝日村)・針尾(同)4か村の水をめぐる出入ははやくからはじまっていましたが、安永8年(1779)には江戸訴訟のすえ、近隣4か村の村役人による仲裁によって一応の解決をみていました。しかし、その後も水田開発はやむことがなくすすみ、そのたびに用水をめぐる争いも年々はげしくなり、文政12、13年(1829、1830)には江戸の評定所への訴訟合戦を繰りかえしていました。天保2年には論所の地所改め(検地見分)もなされたうえで、新堰の埋めたてなど安永年度のきまりへの復帰を言い渡されましたが、対立はふかまるばかりでした。業をにやした幕府は、その紛争解決をはかるために、天保5年にこの地の地押検地の実施にふみきったのです。
 検地奉行には、江戸勘定奉行2人と松本藩奉行1人があたり、それに各奉行つきの用人・御持役・御供ら6人ずつ18人がつき、ほかに8人の下役人と松本藩役人6人の総計35人と、村方からは血判の起請文を提出している案内役の村役人17人に、そのほか多数の人足を動員しておこなわれました。5月から12月にかけての長期にわたるものでした。
 この検地のようすを、検地絵図にしたがってみていきましょう。
 まず検地役人の一行は、到着とともに最初に小高い丘に立って検地村々の遠見(とおみ)見分をおこなっています。到着後8日ほどかけて問題の新堰や各村々の用水路、村境や道筋、川筋などを見分し、古見村から5月17日に検地にはいりました。検地がはじまってまもなくの古見村で、埋めたてる約束になっていた新堰への引水をはじめたため、今井村の百姓らが抗議しましたが聞きいれられず、その夜、組頭など数人によって、堰路はもちろん検地用の抗木までもが破壊されるという事件がおきました。
 このため多くの関係者が捕縛され、入牢となったり呼び出しをうけたりして、責任者2人は江戸送りとなりました。その結果中心人物の1人は死罪、1人は追放、もう1人は手鎖50日、そして村役人には3~5貫文の過料、そのほか関係者76人にも20貫文の過料が課されました。
 このため検地は大幅におくれ、再開されたのは7月25日のことでした。検地は、検地奉行ごと三手にわかれておこなわれました。検地役人らは田圃の細道を一列になってすすみ、村役人を案内役とし、用人や道具持ちをしたがえた検地奉行が先頭にたち、何人かの検地役人らがつづきます。そのあとに、十字型や縄枠(わく)、床几(しょうぎ、椅子)などの検地小道具持ちがつづき、村役人・細見(さいみ)持ち・梵天(びんてん)持ち・間竿(けんざお)や又棒(またぼう)持ち・新や茶道具持ちなどがならび、最後に人足がつづくという物々しい行列をしています。
 当地につくと各分担にしたがって準備にはいり、ついで測量にはいります。藁作りの細見を畑の四隅にたて、その間、四方にも梵天をたててそこから縄を十文字に張り、三方を基準にして四方をきめ、交点に十字型を入れ、縄を直行させて実測するというものです。一筆一筆の計測はただちに野帳(やちょう)に筆写されました。検地奉行は床几(しょうぎ)にすわってそれを見守っています。昼前には一度の休息があって、木陰で茶のもてなしがあり、昼食後には村役人とともに一口ごとに読みあわせの確認がおこなわれますが、「その速きこといなずまのごとくにて」と、村役人はその感想をもらしています。
 古見村の検地がおわると、8月3日からは今井村、8月21日から近隣の出作地(でさくち)分、9月1日から小野沢・針尾村でおこなわれ、17日におわりました。18日ふたたび今井村にうつり、検地帳などの帳簿作りがはじまった。引きはらいとなったのは12月8日でした。
 長期にわたった検地の諸費用は膨大なものでした。