堤夕月君へ

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          秋 風 生
高く澄んでコバル卜の東空にクッキリとその山なみを見せた駒ケ岳の頂きには、もう白いものがやって来ました。
 
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周囲の雑木林には紅い葉や黄い葉がボツボツ見える様になりました。
9月も半ばと云ふに木曽谷はもうすっかり秋です。
今日は日曜でもあり、且つ幾日も降りつゞけて居た雨も久しぶりで晴れたので裏の山へのぼって見ました。
初秋の山は流石(さすが)に清澄な、それは何とも云はれないゆったりとした気分を与へてくれました。愛も憎しみも、毀誉褒貶(きよほうへん:そしること、ほめること)も、何にもないたゞあるがまゞなる自然の山! 元来山の好きな私にとって、秋の山と言へばたまらなくなつかしい、心のふるさとです。山の頂きの樹の根に腰をおろして、麓を通る汽車を眺めて、その汽車に乗って居る様々な人のことを想像して、人生の旅って、やっぱりあの汽車の乗り合ひの様なあはただしいものだ、殆んど無関心でわいわい云って居る間に、時は、汽車は、用捨なく(:手加減することなく)進んで、遂に行く処までは行ってしまふ、とそんなことと思ったり。
下に展(ひら)けた町の家並を眺めて、あんなに町は平静に見えて居るけれ共、あの一つ一つの家のなかには人間の喜びや悲しみや様々な事件と変化とが行はれて居るものだなあ!と云った様な妙にセンチメンタルな感慨に耽(ふけ)ったり、そのほか、様々な空想をほしいまゝにしたりする。
何と云っても秋の山は、自然は、私の様な消極的な人間にとっても唯一の魂の慰安場です。
虚偽と偽善と虚栄の余りに甚だしい現在の社会はたまらない。魂よりはむしろ形式を重んずるが好き、うすぺらな現代の人々との交りには些(いささか)の興味も起らなければ感激も起らない。何時(いつ)もなつかしいのはやっぱり自然ばかりだ。私は今の「愛されぬは不幸なり、愛することの出来ぬは猶更(なおさら)不幸なり」と云ふ蘆花(ろか:注31)の言葉や、「世の中に只一つの勇気がある、それはたゞあるがまゝに人生を視(み)、而して、それを愛することだ」と云ったロマンローラン(注32)の言葉をなどを思ひ出して独りで静かに考へて居ます。
あなたの御手紙にありました信仰についてのお話しね、あゝしたことなども要するに人間がその魂にハットする程大きな感激を受けた時とか、或は自己と云ふものゝうちに大なる欠陥のあることを真に自覚した時とか、又は大きな苦しみをぬいた様な場合にのみ初めて得られるものであって、平々凡々に何の感激もなく暮らして居る普通一般の人々、即ち私共などには到底得られるものでないと云ふ様な気がしますね、それにつけても私はあの賀川豊彦氏(注33)や京都の一燈園主(注34)や倉田百三氏(注35)などのことを思ひ起して、人間もそれ程にまでなり得るものかと一種異様な感じがします。
殊に今年のN市で賀川氏の口から直接に信仰の話しや、神戸の貧民巷(ひんみんこう:スラム街)に於ける氏の生活振りや、夫人の氏に対する尊き理解などを聞いた私は、今でも時々それを思ひ出して涙の出る様な感激におそはれることがあります。
 
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余りに長くなりましたからこれで筆を擱(お)きます。
観楓(かんふう:もみじを見て楽しむこと)、焼鳥(注36)と云ふこの谷にふさはしい秋の楽しみももうの前に迫つて来ました。
瞑想と思索の秋!南国に漂泊(ただよ)ふ多感なる君の感興は如何(いかが)ですか。
さようなら。(1921、9、18)