染井吉野発祥の地・駒込(染井霊園)染井吉野発祥の地・駒込(染井霊園)
 江戸の近郊農村であった豊島区は明治期以降、鉄道網の発達に伴い駅周辺地域からその後背地へと市街地化が進み、特に大正12(1923)に発生した関東大震災は壊滅的な被害を受けた下町地域から山の手地域へと新たな人口流入をもたらした。その過程で、新興都市の自由な雰囲気に惹かれるように文化人や芸術家たちが豊島区に移り住み、児童雑誌『赤い鳥』や池袋モンパルナスなど、様々な文化芸術活動が区内各所で繰り広げられた。また戦後、高度成長期には地方から東京への人の流れが加速し、比較的家賃の安いアパートが密集する豊島区には演劇・映画人をはじめ、トキワ荘のマンガ家たちなど、多くの若者が新たな表現・創作活動の開拓をめざして青春の日々を過ごしていた。そうした若い芸術家たちを温かく受け容れる文化的風土は地域の記憶として刻まれていたが、平成10年代以降の区による文化政策の展開に呼応するように、また長引く平成不況により地域経済や商店街が衰退していくなか、地域の文化資源を再発見し、地域の活性化につなげていこうとの動きが活発になっていった。  本節前項までは平成10年代から20年代にかけての文化を基軸とするまちづくりについて、区の文化行政を巡る動きを辿ってきた。本項では視点を地域に移し、それぞれの地域の中で育まれた地域固有の歴史・文化資源を活かし、どのようなまちづくりが展開されたかを辿っていく。

池袋モンパルナス

 昭和の初めから戦後にかけて、現在の要町・長崎・千早地域周辺には「すずめが丘アトリエ村」「さくらが丘パルテノン」「つつじが丘アトリエ村」などと呼ばれた安価なアトリエ付借家群が点在していた。これらアトリエ村の生成過程については「豊島区史通史編二」(※1)に記されているが、昭和3(1928)年に地主の奈良慶が画家を志していた孫のためにアトリエ付住戸を建てたのをきっかけに周辺に同様の借家が建てられ、6(1931)年には現在の要町1丁目に「すずめが丘アトリエ村」が形成された。さらに11(1936)年から15(1940)年にかけて、アメリカ帰りの資産家・初美六蔵が現・長崎2丁目に60件余りのアトリエ付借家群「さくらが丘パルテノン」を建設し、安価な家賃で貸し出した。15畳ほどのアトリエに3~4.5畳ほどの居室部分がついた簡素な造りではあったが、アトリエを持つことは若い芸術家たちの憧れであり、また省線豊島線(現・JR山手線)でつながる上野の美術館や東京美術学校(初の官立美術学校として明治20[1887]年創立、現・東京藝術大学)、太平洋美術学校(在野の美術団体である太平洋画会が明治37[1904]年に創設した太平洋画研究所を前身として昭和4[1929]年に開校)などに通いやすく、家賃の安い池袋に若い芸術家たちが自然と集まってきたのである。こうした一定の需要が見込めたため、その後も「つつじが丘アトリエ村」(現・千早2丁目)などのアトリエ付借家群が次々と建てられ、最盛期には100軒を超え、数百人の芸術家が住んでいたという。
 戦時色が日に日に色濃くなる時代に、画学生をはじめ画家や彫刻家の卵が寄り集まって暮らし、貧しさの中で創作活動に打ち込み、夜ともなれば池袋の街に繰り出して杯を交わしながら芸術論を戦わせる芸術至上主義的な日々を送っていた。
 その様子を詩人・小熊秀雄は「池袋モンパルナス」と称し、次のように詠った(1938年7月『サンデー毎日』掲載)。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が街に
出る
彼女のために、神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもない
ありあはせの神経を――。
 芸術の都パリになぞらえ、上野の山がモンマルトルの丘ならば、場末の池袋はまさにモンパルナスと呼ぶにふさわしく、自由でエネルギーに溢れ、少しばかり猥雑な街の空気が描かれている。この詩を発表した2年後の昭和15(1940)年、小熊秀雄は肺結核のため39歳の若さで亡くなるが、「池袋モンパルナス」という言葉は当時のアトリエ村やそこに暮らした芸術家たち、さらに彼らを中心に池袋界隈で繰り広げられた交流や芸術活動を総称するものとして後世に伝えられた。
 アトリエ村及びその周辺に暮らした池袋モンパルナスゆかりの芸術家には、その中心的な存在であった小熊秀雄(1901-1940)のほか、鶴田吾郎(1890-1969)、長谷川利行(1891-1940)、福沢一郎(1898-1992)、丸木位里(1901-1995)・俊(赤松俊子1912-2000)夫妻、春日部たすく(1903-1985)、井上長三郎(1906-1995)、靉光(あいみつ、1907-1946)、齋藤求(1907-2003)、吉井忠(1908-1999)、寺田政明(1912-1989)、古沢岩美(1912-2000)、松本竣介(1912-1948)、麻生三郎(1913-2000)、藤本東一良(1913-1998)、峯孝(1913-2003)、若松光一郎(1914-1995)、榑松正利(1916-2008)、高山良策(1917-1982)、長沢節(1917-1999)、野見山暁治(1920-2023)、桂川寛(1924-2011)ら後の日本美術界に大きな影響を及ぼした画家や彫刻家の名が枚挙に暇がないほど並ぶ(生年順)。昭和7(1932)年にアトリエ村に近い千早(旧千川町)に転居し、そこを終の棲家とした熊谷守一(1880-1977)は彼ら若き芸術家たちの良き理解者だった。また小熊をはじめ詩人や戯作者たちも池袋周辺に住み、西口界隈のカフェや酒場では彼ら「三文文士、貧乏詩人、貧乏画家」たちによる喧噪が夜ごと繰り広げられていたのである。
 しかし戦況の悪化は、芸術家たちの解放区とも言える池袋モンパルナスをも侵食していった。ある者は召集されて戦地に赴き、またある者は戦禍を逃れて疎開するためアトリエ村から去って行った。そしてアトリエ村自体も戦災や戦後社会の変遷の中で姿を消していき、現在ではその痕跡はほとんど残されていない。だが戦時翼賛体制へと突き進んでいく時代の波に翻弄されながらも、彼らの創作にかけるひたむきな情熱は作品の中に宿り、後の人々の心をも揺さぶっていくことになる。
 昭和46(1971)年に西武百貨店で「池袋モンパルナス」展が開催されているが、美術関係者や一部研究者を除き、池袋モンパルナスについて知る人はまだ少なかった。昭和59(1984)年に開館した区立郷土資料館は長崎アトリエ村を豊島区の近代史における重要なテーマのひとつに位置づけ、当時のアトリエ村の様子を再現した模型を常設展示するとともに、アトリエ村の暮らしや残された作品について調査し、62(1987)年に調査報告書「長崎アトリエ村史料」をまとめている。また61(1986)年には国立近代美術館で「松本竣介」展(1986年)が開催されるなど、アトリエ村出身の画家たちへの関心は高まりつつあった。だが池袋モンパルナスが世間に広く知られる大きなきっかけとなったのは、昭和63(1988)年から雑誌『すばる』に連載されたノンフィクション作家・宇佐美承による「池袋モンパルナス」である。同著作は加筆され、平成2(1990)年に集英社から単行本として発行されているが、アトリエ村に暮らした芸術家本人やその遺族・友人から実際に話を聴き歩き、数々のエピソードを通して「みんな貧乏で、酒好きで、女好きで、喧嘩っぱやく、絵を描くことのほかは、デタラメだった」芸術家たちの生き様を鮮烈に描きだした。そしてこの著作を原作とする青春群像劇『池袋モンパルナス』が劇団銅鑼により舞台化され、9(1997)年に初演されている。
 こうして池袋モンパルナスを再認識する動きが徐々に広がるなか、平成11(1999)年、池袋を仕事や生活の場とする有志により「池袋モンパルナスの会」が結成された。同会会長の玉井五一(1926-2015)は三一書房、新日本文学会の編集者として戦後の文芸運動に深く関わり、昭和46(1971)年に設立した創樹社から『小熊秀雄全集』(全5巻・別巻、1977~1980)を世に送り出していた。またそれをきっかけに詩人・木島始と小熊秀雄協会を設立し、57(1982)年から小熊の忌日「長長忌(ぢゃんぢゃんき)」を毎年開催していた。「長長」は小熊の長編詩「長長秋夜」(ぢゃんぢゃんちゅうや:朝鮮語で長い長い秋の夜の意)からとったものである。
 池袋モンパルナスの会はアトリエ村の歴史や芸術的な意義を辿ることを通じ、池袋の街のアイデンティティを再発見し、街の活性化につなげていくことを目的に掲げ、アトリエ村の跡を辿るフィールドワークや地図づくり、絵画展等を開催するほか、発足当年から小熊秀雄協会と「長長忌」を共催した(※2)。また劇団銅鑼の『池袋モンパルナス』の再演を支援し、平成11(1999)年9月に東京芸術劇場小ホールで行われた公演はその年の「池袋演劇祭」の大賞に輝いている(※3)。
 さらに発足5周年の16(2004)年11月、「池袋モンパルナスそぞろ歩き~池袋モンパルナスの作家たち<洋画篇>」を刊行した(※4)。A5版60ページ足らずの小冊子には46名の画家の略歴と作品が紹介されているほか、小熊秀雄の詩「池袋モンパルナス」に19歳の音楽家が曲を付けて当時の芸術家たちが盛んに歌っていたというエピソードとともにその楽譜が再現されており、同会の5年間の活動成果をひとつの形にしたものと言えた。この「池袋モンパルナスそぞろ歩き」は「池袋モンパルナス叢書」としてシリーズ化され、洋画編に続き童画、彫刻、日本画の各ジャンル別や小熊秀雄、長谷川利行、熊谷守一ら個人別に編まれたものがほぼ毎年1冊のペースで刊行された(※5)。その最後の1冊である「池袋モンパルナスそぞろ歩き~培風寮/花岡謙二と靉光」は25(2013)年3月に刊行されている。
 詩人・花岡謙二(1887-1968)は池袋モンパルナスの「主」と言われ、若き芸術家たちの親父的存在だった。その花岡が大正13(1924)年、アトリエ村に先駆けて学生たちのために建てたのが下宿屋・培風寮であり、そこで才能を研ぎ澄ませたのが靉光だった。明治40(1907)年広島県壬生町に生まれた靉光は画家を志して大正13(1924)年に上京し、働きながら太平洋画会研究所で学び、昭和6(1931)年に培風寮に入居している。アトリエ付借家を借りるほどの経済的余裕がなかったため、培風寮の狭い一室でひたすら創作に励んだ。19(1944)に応召して大陸に渡り、敗戦後の21(1946)年に上海の陸軍病院で38歳の若さで戦病死する悲運の生涯だったが、代表作「眼のある風景」などシュルレアリスムの先駆的作品を遺した。同冊子にはシュルレアリスム作家として知られる靉光を、シュルレアリスムを超える作家として捉え直すモンパルナス研究家・尾崎眞人氏の一文が載せられているが、ページの過半を占めるのは花岡謙二の息子である花岡昭氏による「花岡謙二のことども」である。忘れられつつある父・花岡謙二の生涯を当時の写真や培風寮の間取り図とともにたどり、靉光の暮らしぶりなどを織り交ぜながら綴られた回想録は、彼らの実像を知る貴重な証言となっている。
 こうした市民レベルでの草の根の活動に続き、平成17(2005)年10月、池袋駅西口地区の商店街を中心に設立されたNPO法人ゼファー池袋まちづくりと地元立教大学、東武百貨店と区の4者は、「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館構想」を発表した(※6)。この構想は「街全体が美術館」をコンセプトに、池袋モンパルナスゆかりの芸術家の作品や子どもたちの作品を西口地区内の各所に展示し、来場者に街を回遊してもらい、地域の活性化につなげていこうというものであった。箱モノの美術館を作るのではなく、街中にある様々な施設を活用して街全体を美術館に見立てる構想であり、また池袋モンパルナスを現代に蘇らせようとの試みであった。10月13日、立教大学太刀川記念館において開かれた記者会見で、押見輝男立教大学総長は「モンパルナスの継承がポイント。日本全国の人が池袋を訪れ、アトリエを構えたという歴史的経緯からも、将来はまちかど美術館に作品を展示するプロを育てる努力をしたい」と抱負を語った(平成17年10月18日付『都政新報』)。
 そして翌18(2006)年3月、池袋西口エリアを中心に41か所を会場として、第1回「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」(以下「回遊美術館」)が開催された(※7)。このいささか長い催事名は後に「池袋モンパルナス回遊美術館」に改称されることになるが、構想発表時のコンセプトが全て盛り込まれており、この催事にかける並々ならぬ意気込みが伝わってくる。
 その第1回の開催概要は以下の通り。
会期:3月16日~28日
主な内容/会場
①吉井忠・熊谷守一特別展/東武百貨店
②吉井爽子・熊谷榧池袋モンパルナス継承展/立教大学
③若手芸術家作品展/創形美術学校、池袋西口の金融機関他
④まちかどこども美術館/東京芸術劇場、池袋西口東京メトロ地下コンコース他
⑤企画展「池袋モンパルナスを生きた人々」/郷土資料館
主催:NPO法人ゼファー池袋まちづくり、立教大学、東武百貨店、豊島区
 立教大学で開催された継承展の吉井爽子・熊谷榧両氏はそれぞれ吉井忠・熊谷守一の娘であり、親子二代にわたる画業を見られる企画として好評を博した。また区内小・中学生の絵画作品約2,500 点を街の各所に飾った「まちかどこども美術館」は、道行く人々の目を楽しませた。
 この回遊美術館は、平成19(2007)年度以降も産官学民連携による実行委員会方式で毎年開催され(※8)、令和4(2022)年時点での開催回数は17回を数え、会場も約70か所に拡大している(※9)。またこの間、かつてのアトリエ村や池袋の街が若い芸術家たちを育んだ歴史を引き継ぎ、平成18(2006)年にみらい館大明の旧理科室を借上げ、アトリエとしてアーティストに提供する事業を開始、回遊美術館の中で支援アーティストによるワークショップや作品展を開催していった(※10)。さらに10周年を迎えた27(2015)年には「池袋モンパルナスの伝承」をテーマに、恒例となった「まちかどこども美術館」など子どもたちの自由な表現活動を後押しする企画に加え、アトリエ村が形成された経緯やゆかりの画家の作品など、池袋モンパルナスについて子どもたちに分かりやすく紹介するイラストガイド「池袋モンパルナス アトリエ村の若い芸術家たち」を発行した。また「池袋モンパルナスの再現(再生)」というもうひとつのテーマのもとに、金丸悠児氏率いる若手アーティスト集団 C-DEPOTと一般公募で選抜されたアーティストたちが池袋駅周辺の複数の会場で作品展示やライブパフォーマンスを繰り広げる「池袋アートギャザリング」を初開催した(※11)。「ギャザリング」とは集まることを意味し、かつての池袋モンパルナスのようにアーティストたちが集まって交流しながら新たな創造の場を広げていこうとの趣旨で、従来の賞金や審査員ありきの公募展とは異なり、芸術家の根源的な欲求である「社会と繋がること」に重点が置かれていた。この「池袋アートギャザリング」も毎年開催され、優れたアーティストを発掘し、交流の場を生み出す公募展として回遊美術館のメインイベントになっている。
 こうした地域の動きにあわせ、区は平成17(2005)年11月、西部区民事務所(旧平和小学校、千早2丁目)の一室に「アトリエ村資料室」をオープンさせた(※12)。平成12( 2000)年に練馬区立美術館で開催された「池袋モンパルナス」展の事前調査で新たな資料が発見される一方、アトリエ村を知る関係者の高齢化により貴重な資料の散逸が危惧されることから、関連資料を収集・保存・公開し、かつてこの地にアトリエ村があったことを広く発信していく場として開設したものである。
 この資料室は区と民間ボランティアによって運営され、その代表を務めた本田晴彦氏は地元住民で美術関係の仕事をしていたことからアトリエ村に関心を持ち、池袋モンパルナスの会による地図「池袋モンパルナス案内-千九百三十八年の或る日」の制作にも関わっていた。この地図は前述した池袋モンパルナスそぞろ歩きシリーズの「小熊秀雄と池袋モンパルナス」(玉井五一編、2008年3月発行)に収録されているが、郷土資料館の資料等をもとに想像を交えて描かれたイラストマップで、副題の「千九百三十八年」は小熊秀雄の詩「池袋モンパルナス」がサンデー毎日に掲載された年であり、「池袋モンパルナス」という言葉が初めて世間に発せられた年であった。そうしたことから同資料室ではただ資料を収集・公開するだけではなく、本田氏が案内役を務める街歩き「アトリエ村さんぽ道」が毎年開催されるようになった。また、回遊美術館にあわせて展示会や独自の企画展も開催された。その中でも小熊秀雄が旭太郎の名前で原作を書き、漫画家・大城のぼるの画により、小熊が亡くなる昭和15(1940)年に刊行された「火星探検」が手塚治虫や松本零士ら後のマンガ家に影響を与えたと言われていることなど、椎名町駅を挟んでアトリエ村とトキワ荘が時代を超えてつながっていることを探る「アトリエ村の漫画家たち」はユニークな企画展だった(※13)。
 平成24(2012)年3月、旧平和小学校を(仮称)西部地域複合施設として新たに整備するため旧校舎を解体することになり、残念ながらアトリエ村資料室は休室となった。だが土日のみの開設にもかかわらず6年余りの間、約4,000人が資料室を訪れており、この小さな資料室でアトリエ村や池袋モンパルナスが地域の誇るべき文化資産であることを知った人は少なくない(※14)。
 さらに区は平成19(2007)年度の新規事業として、池袋モンパルナスの中心人物であり、詩人でもあり画家でもあった小熊秀雄が遺した絵画作品の収集に向けた調査を開始し、専門家で構成される「小熊秀雄作品収集委員会」を立ち上げ、収集方針や購入作品について検討した。その報告書に基づき、20(2008)年度に68点(油彩2点、水彩14点、素描52点)、21(2009)年度に39点(水彩6点、素描33点)の小熊作品を購入し、これら作品を公開する場として21(2009)年に新収蔵作品展「小熊秀雄展1」(3月5日~3月15日)を、翌22(2010)年には「小熊秀雄展2 精神の暁をめざしてー交錯する光と影」(3月4日~3月28日)を開催した(※15)。
 この第1回目の小熊秀雄展では、20(2008)年度に購入した作品のうち小熊の代表作である「夕日の立教大学」(1935年、油彩)のほか、「長崎アトリエ村」「カフェ」など当時の池袋モンパルナスの情景を描いた素描画など、1930年代の東京の街並みや風俗を描いた作品31点が初公開された。明治34(1901)年北海道小樽市に生まれた小熊秀雄が昭和3(1928)年に上京し、長崎町に移り住んだのが昭和4(1929)年28歳の時で、昭和15(1940)年に39歳で亡くなるまで長崎町内を転々と移り住み、寺田政明らアトリエ村の画家たちと親交を深めた。電気を止められるほどの貧しさのなか、ローソクの下で詩作に励むかたわら多くの絵を描いたのもこの時期であるが、絵の具を買う金もなかったのでマッチ棒や折れた割り箸の端を墨汁にひたして描いていたという。そのため遺された作品の多くは素描画であり、池袋をはじめ東京の街並みやそこに暮らす人々の姿を写し取った素描画は詩人の目から見た都市の観察記録と言えた。
 続く第2回目の小熊秀雄展でも34点の作品が公開されたが、この2回とも会場となったのは区立熊谷守一美術館であった。前述したように、熊谷守一は昭和7(1932)年に旧千川町(現在の千早2丁目)に転居し、52(1977)年に97歳で亡くなるまでの45年間、その家に住み続け、晩年はほとんど自宅から出ることもなく、庭の花木や虫、鳥など身近な動植物を描いた。生涯を通して権威におもねることなく、自然を愛し、対象を観察し抜いて究極まで単純化した輪郭と平塗りの面で構成される独特の画風で描きたい絵を描き続けた熊谷守一は、創作を通して自己追求に苦闘するアトリエ村の若き芸術家たちの守護者であり、彼らからも尊敬されていた。熊谷守一美術館はその旧宅跡に昭和60(1985)年5月、守一の次女である熊谷榧氏により開設された個人美術館であったが、作品の散逸防止と現在地での末永い公開を条件に区に寄贈したいとの榧氏からの申し出を受け、平成19(2007)年11月6日に区立美術館として改めて開館したものである(※16)。この負担付贈与は熊谷守一作品153点を区に寄贈するとともに、榧氏の死後に美術館の土地・建物を死因贈与するという内容で、また榧氏が存命中は美術館の運営中枢を榧氏に委託することとされ、同氏が代表取締役を務める株式会社榧が指定管理者に指定された。また24(2012)年4月には榧氏の作品107点についても死因贈与契約が結ばれている(※17)。その榧氏も令和4(2022)年に亡くなったが、常設展のほか開館記念日に合わせた特別展が毎年開催され、根強いファンを持つ守一作品を観ようと住宅街の中の小さな美術館を訪れる人は絶えない。
 その熊谷守一美術館で小熊秀雄の作品展が2回にわたり開かれたのは、半世紀以上の時を超えた邂逅と言え、超俗の画人と無頼の詩人との運命的なつながりさえ感じられる。またこれに続き、22(2010)年度以降も桂川寛、高山良策、寺田政明と3年連続で池袋モンパルナスゆかりの作家展が同館で開催された(※18)。
 桂川寛は大正13(1924)年北海道札幌市の生まれで戦前のアトリエ村世代より一回りほど年少ではあったが、戦後、井上長三郎、丸木位里、吉井忠らが結成した前衛美術会に入会、昭和36(1961)年から千川に住み、60年余に及ぶ制作活動を続けた。批判性の高い作品を一貫して描き続け、池袋モンパルナスの前衛精神を引き継ぐ数少ない作家のひとりであった。平成21(2009)年度回遊美術館のプログラムのひとつとして東京芸術劇場で開催された「池袋モンパルナス展」に出品、翌22(2010)年に代表的な油彩作品50余点が区に寄贈・寄託されたのを受け、23(2011)年2月17日~3月6日に「桂川寛展 まなざしの先にあるもの1950-2000 池袋モンパルナスに立つ道標」が開催された。
 高山良策は大正6(1917)年山梨県の生まれで昭和6(1931)年に上京。いくつかの絵画研究所に学び、昭和20(1945)年にすずめが丘アトリエ村に入居、10年間を過ごした。風景や人をまっすぐにとらえた作品を描く一方、モノとヒト、ヒトと異形とが入り混じる独特な作品を描いているが、高山の知名度を全国的なものにしたのは円谷プロ制作の特撮番組ウルトラシリーズの怪獣製作を手がけたことで、ガラモンやレッドキング、映画「大魔神」の造型も彼の手によるものである。平成24(2002)年2月16日~3月4日に開催された「高山良策展 向こう側の気配-形(かいじゅう)になる頃」は、平成21(2009)年度に区に寄贈された作品の一部と借用作品も含め、そうした怪獣を作り始める前の1945~1960年代半ばまでに制作された作品30点が展示された。
 寺田政明は明治45(1912)年福岡県八幡市生まれで昭和3(1928)年に上京、5(1930)年に太平洋美術学校入学、同期の松本竣介、麻生三郎と活動を共にし、また18(1943)年には靉光、井上長三郎らと新人画会を結成するなど、池袋モンパルナスの中心人物のひとりであった。昭和8(1933)年に長崎仲町に転居、以後戦後まで長崎・千早・要町周辺に住み、すずめが丘アトリエ村の住人でもあった。面倒見がよく若い芸術家たちの兄貴分的存在で、10歳ほど年上の小熊秀雄に絵の手ほどきをし、小熊の詩集の装幀も手掛けている。平成25(2013)年2月14日~3月3日に開催された「寺田政明展 発芽する絵画」では1930~1950年代に制作された作品が展示され、会期中には息子で俳優の寺田農氏による講演会も開催された。
 これら熊谷守一美術館で開催された各展覧会では、講演会や街歩き企画も同時開催され、寺田農氏のほか、小熊秀雄に傾倒する米国生まれの詩人アーサー・ビナード氏や池袋モンパルナスの会の玉井五一氏、アトリエ村資料室代表の本田晴彦氏らが講師を務めた。
長崎アトリエ村模型(郷土資料館)
池袋モンパルナスの会「池袋モンパルナスそぞろ歩き<洋画篇>」発行
「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館構想」発表記者会見(平成17年10月)
第1回新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術「吉井忠展」(平成18年3月)
アトリエ村資料室
熊谷守一美術館

芸術文化資料館整備構想

 こうして平成10年代以降、池袋モンパルナスを地域の貴重な文化資源として活用する様々な取り組みが官民一体となって展開された。そうしたなか、平成18(2006)年3月に策定された基本計画において、西部区民事務所として暫定活用中の平和小学校跡地に近隣の西部保健福祉センター、長崎健康相談所、千早地域文化創造館、千早図書館等を統合し、行政サービス機能、文化・コミュニティ機能を併せ持つ複合施設として整備する再構築案が示された(※19)。これを受けて「(仮称)西部地域複合施設」(以下「西部地域複合施設」)とこの複合施設に入る文化拠点施設についての検討が並行して進められ、21(2009)年1月に「西部複合施設における文化拠点整備計画案」、翌22(2010)年12月に「(仮称)西部地域複合施設基本計画」がまとめられた(※20)。
 この「(仮称)西部地域複合施設基本計画」には、施設整備基本方針のひとつに「旧校舎を解体し、地上4階・地下1階建ての規模の複合施設を建設」することが挙げられ、複合施設のおおよその規模が示された。そしてその1階部分に西部地域における行政サービス・コミュニティ拠点として区民事務所と保健福祉センター及び地域区民ひろばを配し、2~4階部分には千早地域文化創造館、千早図書館に加えて郷土資料館もここに移転し、「公民館系機能(地域文化創造館)」「図書館系機能」「ミュージアム系機能」の3つの機能を併せ持つ文化拠点とするフロア構成案が示された。このうちミュージアム系機能については「郷土資料」「美術」「文学・マンガ」の3分野にわたる博物館施設として、新たに「(仮称)芸術文化資料館」(以下「芸術文化資料館」)を整備する構想が打ち出され、美術分野については池袋モンパルナス関連作家の作品を中心に展示する美術ギャラリーの整備も盛り込まれていた。
 郷土資料館は昭和59(1984)年に勤労福祉会館の7階に開館していたが、仮設置の位置づけで展示スペースも収蔵スペースも十分ではなく、移転再整備が長年の課題となっていた。また美術館については、平成10(1998)年の区議会第4回定例会に650名の署名による「区立美術館建設等に関する請願」が提出され、全会一致で採択された経緯があった(※21)。この請願は池袋モンパルナスの歴史を継承していく区立美術館の建設とわずかに現存するアトリエ村の保存等を求めるもので、板橋区・練馬区の美術館でアトリエ村出身の画家たちを全国に向けて発信しているのに対し、本家である豊島区が遅れをとっている現状を強く訴えるものであった。さらにトキワ荘のあった地元からも記念館の設置を要望する声が以前からあがっていた。そうした状況を背景に3分野を集約する芸術文化資料館が構想されたのである。
 計画では22(2010)年度中に設計者を選定し、23・24(2011・2012)年度に基本設計・実施設計、25・26(2013・2014)年度に施設建設工事を行ない、27(2015)年度に各施設を開設するスケジュールが組まれていた。また総事業費は約45億円が見込まれていたが、昭和40年代の建築で施設更新時期を迎えていた千早図書館と千早地域文化創造館を複合施設に集約し、その跡地を資産活用して売却益を整備費に充てることで、国からの交付金も含め実質的な事業費を32億円に圧縮する計画であった。それでも30億を超える大規模事業となるが、27(2015)年度に予定される新庁舎が池袋駅至近の現庁舎地から南池袋2丁目市街地再開発ビルに移転することになることから、新庁舎に準じる行政サービス拠点を西部地域に開設し、西部地域住民の利便性に配慮するとともに、「東の新庁舎、西の西部複合」として、東西両地域にそれぞれ核となる施設を同時に整備しようとの意図が強く働いていたのである。
 このスケジュールに基づき、設計に反映させる与件を整理するため、文化拠点となる芸術文化資料館、図書館、地域文化創造館の各施設別にさらに検討が進められた。特に新たに整備する芸術文化資料館については、必要諸室や設備等についてより詳細に検討する必要があったため、平成22(2010)年8月、「(仮称)西部地域複合施設におけるミュージアム系機能検討委員会」が設置された。同検討委員会は文化商工部長を委員長に関連部課長で構成される庁内組織であったが、委員会の下に郷土資料、美術、文学・マンガの分野ごとに学識経験者ら専門家で構成される専門部会を設置し、検討委員会10回、各専門部会それぞれ2回ずつと合同専門部会4回での検討を重ね、その検討内容と図書館・地域文化創造館の各検討内容とをまとめ、23(2011)年3月、「(仮称)西部地域複合施設における文化拠点詳細計画」が策定された(※22)。
 この詳細計画は「『連携』と『融合』のもとに、区民とともに新しい文化価値を創造する」ことを理念に掲げ、①文化拠点3施設(芸術文化資料館、図書館、地域文化創造館)の「連携」と「融合」、②芸術文化資料館を構成する3分野(郷土資料分野、美術分野、文学・マンガ分野)の「連携」と「融合」、③複合施設内の他の施設との「連携」と「融合」、④区民・関連諸機関との「連携」の4つの視点が提示されている。「連携」と「融合」をキーワードに、複合施設ならではの相乗効果を引き出していこうとの意図である。また芸術文化資料館については、博物館法に基づく「博物館相当施設」を目指すこととしている。この法的位置づけを得るには同法に定められた施設・設備や運営体制等に関する要件を満たす必要があったが、指定を受けることにより作品・資料の貸出先を博物館法上の施設に限定している団体・組織からも作品・資料を借りることが可能となり、また施設単独での事業展開だけではなく、区内外の社会教育施設・文化施設との連携事業や文化庁等の助成制度の活用など今後の事業活動を広げることが期待され、「連携」と「融合」という施設コンセプトにも合致していた。こうした基本的な考え方に基づき、詳細計画では各施設に求められる機能や諸室の構成、設計に係る留意事項等がまとめられているが、特に芸術文化資料館については区民に開かれた博物館を目指すとともに、文化庁の指針を踏まえ、「博物館相当施設」としての適正な保存環境を確保することが求められた。
 そして平成23(2011)年6月、プロポーザル方式により西部地域複合施設全体の設計者として株式会社山本理顕設計工場が選定され、これに続いて8月には同じくプロポーザル方式により芸術文化資料館の展示基本設計者として株式会社丹青社が選定された。山本理顕設計工場が選定されたのは、「楽しくなるような建築」をキーワードに特徴的な曲面形状の層構成や周辺環境との調和など斬新な提案が高評価につながったものであったが、曲面で構成される建物形状であるがゆえに技術面・コスト面の課題やミュージアムの展示空間としての使い勝手の面での課題が指摘されていた。また丹青社が選定されたのは区民参加の教育普及機能に重点を置き、「区民とともに展示や活動をつくっていく」との視点が高く評価されたもので、施設コンセプトの「連携と融合」を意識した提案意図が明確であったことによる(※23)。
 こうして設計事業者が決まり、当初のスケジュール通りに23(2011)年度に基本設計、24(2012)年度に実施設計と進められ、25(2013)年度にかけて旧校舎の解体工事も実施された(※24)。そして25(2013)年8月29日、建設工事の入札を行なうこととしたが、予定価格を23億750万円(税抜き)としていたこの入札に、参加予定事業者の3者がいずれも辞退する事態となった。23(2011)年3月に発生した東日本大震災の復興工事が進むなか、建築資材や建築工事に係る人件費が急騰し、区が設定した予定価格と事業者の見積額に大きな乖離が生じていたのである。このため区は急遽、9月20日開会の区議会第3回定例会に西部地域複合施設建設経費の債務負担行為限度額を32億4,522万6千円から1.5倍となる48億9,300万円に引き上げる補正予算案を提出し(※25)、その議決を経て11月18日、再度入札を行なった。だが入札予定価格を前回より10億円近く増額して32億6,362万円として臨んだこの入札でも、参加事業者の入札金額は47億円とさらに15億円近く高く、入札は不調に終わった(※26)。
 この時期、このような事態は豊島区に限ったことではなく、その年の11 月に都内で発注された公共工事9件が全社辞退で不調となっていた。震災復興工事の本格化や消費税率引上げ前の駆け込み需要などによる建設工事の増大に伴う資材費や労務費の高騰に加え、建設労働者の慢性的な不足により安定的な工事執行が難しくなっており、建設事業者の多くが新規受注の抑制、選別、停止といった対応を取らざるを得ない状況に陥っていた。そして東京オリンピック大会の開催を控え、こうした傾向は当面続くことも予想された。そこでこれら2度にわたる入札不調の要因分析を踏まえ、25(2013)年12月、区は当面の対応として事業を推進する環境が整うまでの間、西部地域複合施設の建設を一時凍結せざるを得ないと判断した。そして概ね 26 (2014)年度中を目途に設計の変更や工期の見直しなども視野に入れ、計画の実現性について改めて検討することとした(※27)。
 翌26(2014)年4月、今後の方針として「(仮称)西部地域複合施設建設は、平成32年の東京オリンピック前後を目途に、建設工事費の状況など事業推進の環境が整うまでの間凍結とし、暫定活用の整備を行う。なお、施設の設計については、地域特性を踏まえ、かつ、地域の将来像を見据えた質の高い設計であるとのプロポーザル選定委員会の決定を踏まえ、現在の設計を維持する」ことを改めて決定した(※28)。この方針決定は、3回目の入札の可能性を判断するため再積算した建設工事費が2回目入札時よりさらに約5億8千万円、1回目入札時より17億円と65%を超えるほど上昇しており、総事業費も債務負担限度額を大きく超える約64億円となること、また工事費上昇分を補うため設計者を交え仕様の見直し等、様々な削減方策を検討したが十分な削減効果を生み出すことはできなかったことなどによるものであった。
 この方針に基づき、西部区民事務所については解体工事後の整備予定地にプレハブ庁舎を整備し、体育館とグラウンドについては暫定整備後、区民の利用に供することとした(※29)。また再編予定の千早図書館と千早地域文化創造館耐震補強等改修工事を施して既存施設を引続き使用することとし、郷土資料館についても既存施設で引き続き事業を実施していくことになったのである。
 この方針を報告した26年第2回区議会定例会の召集あいさつで、区長は次のように述べている(※30)。
-西部地域複合施設は、残念ながら2回にわたり入札不調となりましたが、要因である工事費の急騰が終息する見通しが当面立たないことから、東京オリンピック・パラリンピックの開催前後まで建設着工を凍結することとし、改めてその着工の時期を探ることにいたしました。
 施設の完成を心待ちにしておられる西部地域を中心とした多くの区民、関係者の皆様のことを考えると、苦渋の決断であります。
 建設経費が想定を超えて膨れ上がり続ける状況では、致し方ない「苦渋の決断」ではあったが、西部地域複合施設の着工が凍結されたのに伴い、芸術文化資料館の展示計画等の検討も休止状態となった。だがミュージアムの開設に向けた準備事業はその後も継続され、池袋モンパルナス関連の作家を中心とする作品収集や調査・研究、また郷土資料、美術、文学・マンガ3分野の連携により「豊島ミュージアム講座」を毎年開催するほか、「生誕80周年横山光輝展」(2014年)、収蔵品展「蔵出し!としまコレクション」(2016年)、郷土資料館リニューアル記念展「学びと暮らし」(2017年)、美術企画展「アトリエのときへ 10の小宇宙」(2018年)などのミュージアム開設プレイベントが毎年のように継続して展開された(※31)。
 そうしたなか、計画凍結から7年が経過した令和2(2020)年、西部地域複合施設整備計画の大幅な見直しが行なわれ、計画そのものが白紙撤回された(※32)。その理由は凍結の最大の要因であった建設費の高騰が依然として続いており、その時点での総事業費の積算費が 90~100 億円と見込まれ、計画策定当初の2倍以上になっていること、またこの間に大規模改修を終えた「としま産業振興プラザ」(旧勤労福祉会館)の中に郷土資料館がリニューアルアープンしたことやトキワ荘マンガミュージアムの開設が予定されていること、さらに新型コロナウィルス感染症拡大の影響により大幅な歳入減が見込まれる中で区全体としての施設建設計画の見直しが求められていることなどが挙げられ、様々な状況変化を踏まえての決定であった。これによりハードとしてのミュージアム整備構想は立ち消えになってしまったが、しかし池袋モンパルナス関連作品の収集はもとより、3分野の連携によるソフト事業としての「芸術文化資料館開設準備事業」は「豊島区収蔵作品等 3 分野企画展事業」として引き継がれ、その後、新たな展開が図られている。
小熊秀雄「夕陽の立教大学」1935年(豊島区蔵)
収蔵品展「蔵出し!としまコレクション」

トキワ荘のあったまち-椎名町

 若い芸術家たちを揺籃する豊島区の文化風土を象徴するものとして挙げられるのは、戦前を代表するのが池袋モンパルナスであるならば、戦後を代表するのがトキワ荘である。
 トキワ荘は昭和27(1952)年12月6日、椎名町5丁目2253番地(現・南長崎3丁目16-3)に棟上げされた木造モルタル2階建てのアパートである。1階に10室、2階に11室の計21室のうち17室が四畳半一間に押し入れが付いただけの簡素な造りで、各階に共同の炊事場とトイレが設けられていた。その当時、就職や進学のために地方から上京してくる若者向けに建てられた典型的なアパートで、四畳半一間の家賃は月3,000円だった。
 昭和28(1953)年の始め、この新築まもないトキワ荘の2階の1室に手塚治虫が入居した。既に売れっ子マンガ家だった手塚は、実家のある宝塚と出版社のある東京とを頻繁に往き来するようになっていたため、雑誌『漫画少年』の発行元である学童社の紹介で仕事場兼東京の住まいとして借りたものである。『漫画少年』は、『少年倶楽部』(講談社発行)の名編集長だった加藤謙一が戦後に興した学童社から発行されていた月刊誌で、手塚治虫の『ジャングル大帝』(1950年11月号~1954年4月号)が連載されていたほか、マンガの投稿欄が設けられ、新人マンガ家発掘の場となっていた。加藤謙一の次男で『漫画少年』の編集者としてマンガ家の世話をしていた加藤宏泰が先にトキワ荘に住んでおり、手塚治虫にトキワ荘を勧めたのも彼だった。手塚の部屋には仕事机と本箱、布団のほかに家具らしきものはほとんどなく、そこで暮らすというより専ら上京した際の仕事場として使われていた。当時、何本も連載を抱え、多忙を極めていた手塚の部屋には入れ替わり立ち替わり原稿取りの編集者が訪れていたが、締め切りに追われた手塚が編集者の階段を上がってくる音を聞きつけ、2階の窓から飛び降りて逃走したという逸話も残されている。その部屋から『ジャングル大帝』をはじめ、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』など数々の名作が生み出されたのである。
 手塚に続き、28(1953)年の大晦日に『漫画少年』の投稿欄の常連だった寺田ヒロオが学童社を頼って上京し、手塚の向かいの部屋に入居した。そして翌29(1954)年10月、手塚が雑司が谷の並木ハウスに引っ越した後の部屋に、手塚から敷金3万円と机を譲られた藤子不二雄○Aと藤子・F・不二雄が入居した。翌年、隣が空いたので藤子・F・不二雄はその部屋に移っているが、小学生の頃から一緒にマンガを描いてきた彼らは、ふたりで一人の「藤子不二雄」のペンネームで合作を続けた。さらに30(1955)年8月に鈴木伸一が寺田の部屋のひとつ隣の部屋に入居し、その部屋に31(1956)年2月から年末まで森安なおやが居候していた。同じく31(1956)年5月に石ノ森章太郎、8月には赤塚不二夫がそれぞれ藤子らの部屋の並びに入居した。また彼ら住人のほか、永田竹丸、長谷邦夫、つのだじろう、横山孝雄、園山俊二など「通い組」(通勤組)と呼ばれるマンガ家の卵たちが毎日のように入り浸っており、トキワ荘の2階はさながらマンガ家たちの「梁山泊」と化していったのである。
 トキワ荘の部屋に空きがでるたびに新人マンガ家に入居を誘ったのは、トキワ荘のリーダー的存在で面倒見が良く、「テラさん」の愛称で親しまれた寺田ヒロオだった。入居基準は「いいマンガを描きたいと純粋に思っていること」だったという。当時、寺田は『漫画少年』の投稿欄を担当していたこともあって、投稿作品の中からこれと思しき作者に声をかけたのである。また、寺田を中心に理想のマンガを描くための若手マンガ家グループ「新漫画党」が結成されたのもこの頃である。
 駆け出しのマンガ家だった彼らは、雑誌社からの注文を受けて締め切り前は連日徹夜でひたすらマンガを描く日々を送りながらも、何かあれば誰かの部屋に集まり、キャベツの塩炒めやサケ缶、マグロフレークなどをつまみに、寺田ヒロオが考案した焼酎のサイダー割り「チューダー」を飲みながら他愛ない話で大いに盛り上がっていた。と言ってもその当時、寺田と藤子不二雄○A以外はほとんど酒が飲めなかったので、サイダーに少しばかりの焼酎をたらしたものだったというが、それでも宴会はいつ果てることなく深夜に及び、階下の住人からほうきの柄でドンドン突つかれていたという。原稿料が入っても映画や書籍代でたちまち消え、家賃が払えず寺田に立て替えてもらうこともしばしばだったというが、テレビやステレオなどはいち早く購入し、石ノ森の買った8ミリカメラで映画を撮ったり、一緒に旅行したりもしていた。食費をギリギリ切り詰める一方、そうしたことに金を使うことは惜しまず、またそれらがすべてマンガの糧になるからであり、何より仲間と一緒に過ごす時間が創作に向かうエネルギーになっていた。
 こうしてトキワ荘の中心にいた寺田だったが、昭和32(1957)年6月、結婚のためトキワ荘から転出した。寺田が抜けた穴はさぞや大きかったと思われるが、翌33(1958)年には水野英子が石ノ森、赤塚と「U.マイア」(マイアMIAは3人の頭文字を取り、ユーマイアは「うまいや」のもじり)の名義で合作マンガを作るため、3月から10月までの約7か月間をトキワ荘で暮らし、同じ年によこたとくおが入居、トキワ荘でのマンガ家たちの日々はその後もしばらく続いた。
 既にプロのマンガ家として活躍していた手塚治虫は別にして、トキワ荘に暮らした彼らの多くは、マンガの神様・手塚治虫に憧れ、『漫画少年』に投稿した作品が認められ、マンガで身を立てるべく上京してきた二十歳そこそこの若者たちである。投稿時代から天才少年と評され、手塚が仕事の手伝いに指名した石ノ森章太郎や、小学生の頃から投稿し続け手塚の目にとまった水野英子がトキワ荘に入居したのはまだ18歳の時だった。
 今でこそマンガは日本文化を代表する一ジャンルに位置づけられているが、彼らがトキワ荘に暮らした昭和30(1955)年前後の日本社会では未だマンガの市民権は確立されておらず、マンガは子どもの頭を悪くする悪書と言われ、PTAによる悪書追放運動まで起きていた。そうした時代にマンガで身を立てようとするのは生やさしいことではなく、誰もがマンガ家になる夢とともに幾ばくかの不安を抱えていた。そんな彼らにとって、同じ志を持つ仲間と切磋琢磨しながら過ごす日々は大きな支えになっていたにちがいない。
 彼らにとってのトキワ荘は、「不安と苦しみばかりじゃない。ともかく自分の稼ぎで食っているぞという現実が、まず嬉しかった。そして連中と顔を会わせれば、息が出来なくなる位笑って笑って、今では何がそんなにおかしかったのかまるで思い出せないのだけれど、とにかく素晴らしい仲間がたくさんすぐ側にいてくれた。金が無くても金なんか使わなくても、結構楽しめたわけで、それが僕の心の“トキワ荘”ね」(寺田ヒロオ:『えすとりあ』季刊2号、1982年2月20日発行より)、「机も何もない部屋で売れないマンガをセッセと毎日かいていた。部屋代を三か月ためたのもこのころ。しかし、意外とのんびりしていたのは、性格からだけではない。トキワ荘はまんがの宝庫だった。生きたまんがの参考書がゴロゴロいるのだ」(赤塚不二夫:『COM』1970年10月号より)と振り返っているように、下積み生活をともに過ごす仲間たちと、マンガに懸ける夢を一心に追い求めたかけがえのない場所だったのである。
 やがて彼らもマンガが売れ出してより広い仕事場を求め、また結婚などを機にひとりまたひとりとトキワ荘を去って行き、昭和36(1961)年の暮に最後まで残っていた石ノ森章太郎もトキワ荘を引き払った(※但し、当時石ノ森のアシスタントを務めていた山内ジョージが1960年9月~1962年3月までトキワ荘に住み続けたため、マンガ家としての最後の住人は山内ジョージになる)。
 マンガ家たちがトキワ荘に暮らしたのは昭和28(1953)年の手塚治虫の入居から10年足らずの短い期間ではあったが、手塚が昭和42(1967)年に創刊したマンガ雑誌『COM』 に連載された読み切り短編連作『トキワ荘物語』(1969~、手塚ほか12人)や、1970年代~1980年にかけて『週刊少年キング』など数誌に掲載された藤子不二雄○A(掲載当初の表記は藤子不二雄)の『まんが道』など、トキワ荘のマンガ家たち自身によるオマージュ的な作品を通し、トキワ荘は現代マンガ界を代表する巨匠たちが青春時代を過ごした伝説のアパートとして知られるようになった。
 そのトキワ荘も老朽化のため、昭和57(1982)年に解体されることになった。だが取り壊しが決まったことで、この忘れられかけていたトキワ荘はかえって脚光を浴びることになる。解体前年の56(1981)年5月、NHK特集『わが青春の「トキワ荘」~現代マンガ家立志伝~』が放映された。この特集番組は解体前のトキワ荘にかつての仲間たちが集まって「同壮会」を開く様子や人気マンガ家として大成した手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎らの「立志伝」を描くだけではなく、商業主義に走るマンガ業界の中で理想とする子どもたちのための良質なマンガを描く場を失った寺田ヒロオが、そうした風潮へのアンチテーゼのごとく『漫画少年史』(1981年湘南出版社)を編集する姿や、一度はマンガ家をやめて職を転々としながらも、出版されることのない長編作品を11年間も描き続ける森安なおやの姿など、マンガ家たちの光と影を1年にわたって追ったドキュメンタリーで大きな反響を呼んだ。さらに同年の8月にはフジテレビでアニメ『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』が放映され、また『二人で少年漫画ばかり描いてきた-戦後児童漫画私史』(藤子不二雄著、1980年文藝春秋社)、『章説・トキワ荘・春』(石森章太郎著、1981年スコラ)、『トキワ荘青春日記』(藤子不二雄 著、1981年光文社)などが相次いで出版され、“トキワ荘ブーム”とも言える現象が湧き起こり、トキワ荘は多くのマンガファンたちの間で次第に「聖地」化されていったのである。
 こうした動きに呼応し、区は昭和61(1986)年11月、郷土資料館で特別展「トキワ荘のヒーローたち-漫画にかけた青春-」を開催した。同展では手塚治虫をはじめとするトキワ荘のマンガ家やその作品のほか、当時の暮らしぶりや新漫画党の活動などを紹介するとともに、手塚治虫が最初に入居し、その後、藤子不二雄○Aが暮らしたトキワ荘14号室が再現展示された。11月18日~12月26日の会期に来場者は3,000人を超え、寄せられた感想からは子どもから高齢者まで、また区外からも多くの人が来館し、世代を超えてマンガが愛されている様子が窺えた。さらに会期中には手塚治虫はじめマンガ家たちも来場して当時を懐かしむとともに、藤子不二雄○A、藤子・F・不二雄、鈴木伸一、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、つのだじろう、永田竹丸、長谷邦夫の9人のマンガ家による座談会が開催され、その模様は翌62(1987)年1月1日発行の広報としま新年号に掲載された(※33)。
 しかし、マンガの神様・手塚治虫が平成元(1989)年に60歳で亡くなり、続いて4(1992)年に寺田ヒロオ(61歳)、8(1996)年に藤子・F・不二雄(62歳)、10(1998)年には石ノ森章太郎(60歳)が鬼籍に入った。戦後のマンガ界に足跡を残した彼らの未だ早過ぎる死は大きな喪失として報じられたが、区も10(1998)年12月、12年ぶりに「トキワ荘のヒーローたち2-漫画にかけた青春-」を開催し、4人のマンガ家を追悼した(※34)。
 こうしてトキワ荘ゆかりのマンガ家たちが相次いで亡くなっていく中で、トキワ荘の地元も動き出した。平成11(1999)年9月、トキワ荘の存在が時の流れに埋没していくことに危機感を抱いた地元有志が署名運動を始め、同年第3回区議会定例会に2,105名の署名を付して「(仮称)『トキワ荘』記念館の建設についての陳情」を提出したのである(※35)。
 陳情の主旨は以下の2点であった。
  • 1.区は、旧「トキワ荘」を後世に伝える(仮称)「トキワ荘」記念館を地区内に建設し、出身漫画家の関係資料を収集し、展示すること。
  • 2.区は、記念館建設計画が財政状況等の事情により将来にわたる場合、パイロットプランとして、商店会の空き店舗や空き地を利用した施策の実現を図ること。
 この陳情が出された背景には、トキワ荘のあった椎名町(現・南長崎)地域の衰退があった。地域の生活道路である南長崎通りはマンガ家たちが暮らしていた昭和30年代には200軒余りの店が立ち並ぶ活気ある商店街だったが、昭和から平成へと時代が移り変わる中でその数は減少の一途をたどり、この頃はすでにシャッター商店街になりつつあった。こうした状況に歯止めをかけるために、地域の文化資源であるトキワ荘を活用しようとの意図があったことは、上記陳情主旨の2に商店会の空き店舗や空き地の活用が挙げられていることからも窺える。だが、この陳情が出された平成11(1999)年は高野区政がスタートした年であり、区は危機的な財政状況に陥っていた。そうした区の財政状況を地元も斟酌した上で、記念館建設の要望に併せて2番目の代替案が示されたものと思われる。この陳情を審査した区議会文教委員会は、現実問題としてすぐに記念館を建てるのは無理だとしても、長期的な視点に立って資料の収集など区としてできることから取り組んでいくべきとの意見が大勢を占め、この陳情については「継続審査」の取扱いとした。
 その後しばらくは目立った動きは見られなかったが、平成19(2007)年7月、トキワ荘跡地へ続く私道入口に、地元の南長崎ニコニコ商店街と目白通り二又商店会が共同で「マンガの聖地『トキワ荘』跡入り口」と記した看板を設置した。昭和57(1982)年に解体されたトキワ荘の跡には鉄筋コンクリート 2 階建ての新しい「トキワ荘」が建てられたが、これも既に売り払われ、その跡には日本加除出版の社屋が建てられた。こうして跡地にはトキワ荘があったことを示す痕跡が何もなくなり、それでも「聖地」を訪れる多くのマンガファンたちのためにと、地域が協力して設置した誘導看板だった。これをきっかけに、トキワ荘を地域のまちづくりに活用しようとの活動が地元商店街を中心にスタートし、同年12月に記念碑設置の要望書が区長に提出された。こうした地域の動きに応え、区は翌20(2008)年度の新規事業として予算化し、地元4町会(南長崎一丁目みどり会、南長崎二丁目町会、南長崎三丁目北部町会、南長崎三丁目南部町会)と2商店会(目白通り二又商店会、南長崎ニコニコ商店街)を中心に実行委員会を立ち上げ、記念碑設置に向けた事業に着手した。
 そして平成21(2009)年4月4日、トキワ荘跡地からほど近い南長崎公園内に記念碑「トキワ荘のヒーローたち」が完成し、その除幕式が開催された(※36)。記念碑の台座にはトキワ荘に暮らした手塚治虫ら10人のマンガ家の自筆似顔絵とサインが刻まれたプレートが埋め込まれ、台座の上にはトキワ荘の模型が置かれている。そのデザインは実行委員会で検討され、鈴木伸一、水野英子、よこたとくおの3人が監修したものである。除幕式に列席した鈴木伸一が「マンガ家が作り上げた実績の上にたつトキワ荘記念碑です。本当に喜ばしいこと」と語り、また水野英子も「当時手塚先生がトキワ荘の碑が立つといいねと語っていた。当時では、マンガの碑が立つなんてことはとうてい考えられないことだった」と振り返っているように、記念碑はかつて「悪書」と言われたマンガがトキワ荘をはじめとする多くのマンガ家たちの奮闘により市民権を得たひとつの証でもあった。それだけに記念碑の完成は地元にとってはもとより、全国のマンガファンにとっても待望のものであり、除幕式には地元住民やマンガ関係者をはじめ、全国から2,000人もが集まりその完成を祝い合った。
記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
記念碑「トキワ荘のヒーローたち」除幕式
 またこの記念碑完成に先立ち、2月14日には手塚治虫の長男である手塚眞氏による特別講演会「父は天才・手塚治虫」と手塚が創設したアニメ制作会社「虫プロ」のOB達による感謝展が同時開催された(※37)。しかしこの時には、前述した手塚ら4人に加え、平成11(1999)年に森安なおや、20(2008)年には赤塚不二夫がすでに亡くなっており、記念碑の制作には彼らの遺族や関係プロダクションの協力なくしてはなし得ないことであった。特にマンガ家の作品やキャラクターを管理する各プロダクションとの調整には時間を要したが、だがそこで築かれた関係がその後の事業展開につながっていったと言える。
 この記念碑の設置を端緒として、トキワ荘を活用したまちづくりは大きく動き出した。区は平成21(2009)年度からの新規事業として「トキワ荘・並木ハウス関連事業」をスタートさせるとともに、「トキワ荘通り・協働プロジェクト」として17項目に及ぶ事業の検討を行なっている(※38)。同プロジェクトは①マンガ文化を活用した地域ブランドの確立と商店街の活性化、②まちの回遊性向上と効果的な案内システムの構築、③地域との協働に基づく区民主体の持続可能な仕組みづくりの3点を目的とし、プロジェクトを構成する17の事業項目の中には「南長崎花咲公園内へのミニ資料館の設置」「空店舗等を活用した『トキワ荘資料館』の設置」など、平成11(1999)年に地元住民らから出された陳情の主旨が反映された項目も見られ、後のマンガミュージアム構想につながる萌芽が見られた。また、このプロジェクトの一環として、「南長崎通り」の区道通称名は地域の賛同を得て「トキワ荘通り」に変更された。
 なおこの新規事業の「トキワ荘・並木ハウス関連事業」には、南長崎地域でのトキワ荘関連事業のほか、手塚治虫がトキワ荘から引っ越した並木ハウスが現存する雑司が谷地域のまちづくりも含まれた。さらに『鉄人28号』『魔法使いサリー』『三国志』など数々の名作を世に送り出し、マンガの鉄人と称される横山光輝が昭和35(1960)年から平成16(2004)年に亡くなるまでの45年間を千早二丁目に住んでいたことや、池袋を中心とするアニメ文化・産業の集積等を踏まえ、平成28(2016)年度以降、事業名称を「マンガ・アニメ等を活用した観光事業」に変更し、事業内容の拡充を図っている。だが高野区長が常々「アニメの原点はマンガ、そのマンガの原点はトキワ荘」と言っていたように、マンガ・アニメを活用した施策展開の核となるのは「トキワ荘」だったのである。
横山光輝「鉄人28号」像(千早図書館)
横山光輝マンガキャラクター特別住民票
 一方、こうした区の動きと連携し、トキワ荘の地元南長崎地域でも商店街を中心に、トキワ荘のマンガ家達や彼らが暮らした当時の椎名町を紹介する冊子『トキワ荘通り』を発刊するほか、記念碑完成を祝う周年イベントや地域の祭礼である「子育て地蔵まつり」に合わせた「マンガの聖地まつり」、目白大学との協働による「夢の虹」イベント等を開催するなど、多くの自主的な活動が展開された(※39)。これらの活動を中心的に担っていた南長崎ニコニコ商店街(現・トキワ荘商店街)の小出幹雄氏が、後にインタビューで「大切なのは、地域の課題を人任せにせず、住民自らが動くということです。自分たちで町を元気づけようと動いたからこそ、区長にも熱意が伝わり、行政と連携したミュージアム設立に繋がりました」(2021年12月「としまSDGsアクション!」WEBサイト)と語っているように、プロジェクトの大きな推進力になったのはこうした地域住民の熱意と行動に他ならない。
 そして23(2011)年4月には、区との協働を持続的なかたちにするために、商店会・町会を中心に約50名で構成される「トキワ荘通り協働プロジェクト協議会」(2016年「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」に改称)が発足した。これ以降、25(2013)年度に「トキワ荘通りお休み処」が開設され、27(2015)年度には南長崎地域内の各所にゆかりのマンガ家作品のキャラクターモニュメントを設置する「南長崎マンガランド事業」がスタートするなど、同協議会との協働によるプロジェクトが次々と具体化されていった。そしてこうした取り組みの積み重ねが地元悲願の「トキワ荘記念館」、すなわち「トキワ荘マンガミュージアム」の建設へとつながっていったのである。
 以下、21(2009)年度から28(2016)年度までに展開された主なプロジェクトの概要を時系列で列記する。

○トキワ荘関連商標登録
 トキワ荘に関する展示やイベント、オリジナルグッズの製作等について地域で広く活用できるよう、平成21(2009)年10月2日、「トキワ荘のヒーローたち」及び「トキワ荘」を区が商標登録

○企画展「トキワ荘のヒーローたち」(※40)
 1986・1998年に続く3回目の企画展を開催(会期:2009年10月24日~12月6日)。第1会場の郷土資料館のほか、地元の第2会場(区民ひろば富士見台)で「椎名町物語」展を同時開催し、2会場をつなぐスタンプラリー等関連イベントを実施、両会場の延入場者数は約1万人に及んだ。 
企画展「トキワ荘のヒーローたち」(図録表紙)
企画展「トキワ荘のヒーローたち」(文部大臣視察)
○散策案内板の設置、散策マップの作成(※41)
 トキワ荘のマンガ家たちが通った銭湯(鶴の湯・あけぼの湯)や喫茶店(EDEN)、目白映画館などの跡地に「トキワ荘ゆかりの地」案内板を平成22(2010)年度から順次設置。また「マンガの聖地『椎名町』散策マップ」(2011年1月)、「トキワ荘ゆかりの地散策マップ」(2013年9月、2020年9月改定)など街歩きマップを継続して発行。なおこれら椎名町地域のマップとは別に、横山光輝が暮らした千早や並木ハウスのある雑司が谷も含めたより広域的な「豊島区マンガゆかりの地MAP」も作成されている。

○トキワ荘マンガ文化の活用に関する基礎的調査(※42)
 トキワ荘マンガ文化に関する区としては初の調査を実施し、平成23(2011)年6月に報告書にまとめ頒布。同報告書は第1部「トキワ荘の概要」に続き、第2部「トキワ荘の文化継承・活用に関する現状と課題」ではトキワ荘関連事業の取り組み実績や地域のトキワ荘に対する意識調査に基づき現状と課題を整理、第3部「マンガ・アニメを活用したまちづくりの事例」では石巻市、登米市、練馬区、江東区、宝塚市、神戸市など27自治体へのアンケート調査結果をまとめ、第4部「トキワ荘の文化継承・活用に係る考察と今後の展開」で資料館開設も含めた今後の事業展開の方向性を示しており、マンガミュージアム構想への第一歩となるものであった。

○紫雲荘活用プロジェクト(※43)
 トキワ荘では手狭になった赤塚不二夫がすぐそばに仕事部屋として借りた紫雲荘(現存)を活用し、プロのマンガ家をめざす入居者を公募、平成23(2011)年6月、第1期生2名を決定。入居者には最長3年間の家賃補助(月額4万円のうち2万円)のほか、現役マンガ家によるワークショップ等に優先的に参加できるなど物心両面で支援。26(2014)年から2期生2名、29(2017)年から第3期生3名と3期7人が支援を受け、その中からマンガ家デビューを果たした若者もいる。
紫雲荘
「紫雲荘・活用プロジェクト」入居式
○椎名町駅舎改修に伴う駅周辺観光情報発信事業(※44)
 平成23(2011)年10月、椎名町駅舎改修に伴い新たに整備された南北自由通路に「椎名町ギャラリー」を開設し、ゆかりのマンガ家等をリレー式で紹介展示。翌24(2012)年11月、改修工事が完了した駅南口に「ようこそトキワ荘のあった街・椎名町へ」の壁画と「ゆかりの地散策マップ」を設置、25(2013)年3月には椎名町駅の発車メロディを藤子不二雄○A『怪物くん』テレビアニメのオープニングテーマ曲「おれは怪物くんだ」に変更。
「トキワ荘ゆかりの地」散策マップ
椎名町ギャラリー「豊島区ゆかりのマンガ家」シリーズ展示
○トキワ荘跡地モニュメントの設置(※45)
 平成24(2012)年4月6日、トキワ荘跡地に建つ日本加除出版や跡地に続く私道近隣住民の理解と協力を得て、同社敷地内に跡地モニュメントを設置。南長崎花咲公園内に設置された記念碑と同様に、トキワ荘の模型が置かれた御影石の台座にはここにトキワ荘があったことを記す解説板が埋め込まれている。
トキワ荘跡地モニュメント
モニュメント除幕式
○トキワ荘関連事業マンガ寄附(※46)
 平成25(2013)年度開設予定の「お休み処」の運営資金等に充てるため、ふるさと寄附金制度を活用した寄附金を募集、24(2012)年12月11日から受付を開始、25(2013)年12月末現在で61件の寄附を受領

○「トキワ荘通りお休み処」の開設(※47)
 平成25(2013)年12月15日、トキワ荘通りの空き店舗(旧吉津屋米店)を活用し、地域内散策の拠点施設として「トキワ荘通りお休み処」を開設。1階はトキワ荘関連のマンガを読みながら休める休憩スペースのほか関連グッズ販売やイベント等を開催、2階の展示スペースには寺田ヒロオが暮らしたトキワ荘22号室が再現展示(常設)されているほか、トキワ荘に関する企画展示を随時実施。開処5か月後の26(2014)年5月に来処者1万人、3周年を迎えた29(2017)年1月に同5万人を達成、「聖地」を訪れるマンガファンの憩いの場となっている。
トキワ荘お休み処
ゆかりのマンガ家たちのサイン入看板
寺田ヒロオの部屋の再現
○南長崎マンガランド事業(※48)
 平成27(2015)年度からの新規事業として、ゆかりのマンガ家作品のモニュメント(マンガの聖地としまモニュメント)を地域内各所に設置し、南長崎全体でマンガを感じられる取り組みを開始。その第一段として28(2016)年4月16日、手塚治虫『ジャングル大帝』のレオ&ライヤ(東長崎駅南北自由通路)、寺田ヒロオ『背番号0(ゼロ)』のゼロくん(南長崎スポーツ公園)、同年12月10日には第2弾として鈴木伸一「ラーメン屋台モニュメント」(南長崎公園)、森安なおや「いねっ子わらっ子」のマコちゃん(特別養護老人ホーム風かおる里)の各モニュメントが設置された。以後、30(2018)年12月1日に水野英子『星のたてごと』リンダ&ユリウス(都営大江戸線落合南長崎駅)、令和元(2019)年6月29日に藤子不二雄Ⓐ『怪物くん』、石ノ森章太郎『サイボーグ009』、赤塚不二夫『天才バカボン』(西武池袋線椎名町駅)、2(2020)年3月1日によこたとくお『マーガレットちゃん』(区民ひろば富士見台)、3(2021)年3月19日に山内ジョージ「あいうえおモニュメント」と新規設置が進められている。
「マンガの聖地としま」モニュメント除幕式
(手塚治虫『ジャングル大帝』レオ&ライア)
(寺田ヒロオ『背番号0』ゼロくん)
○トキワ荘等に関する基礎調査(※49)
 南長崎マンガランド事業の一環として、トキワ荘の復元に向けた検討が27(2015)年度からスタート。初年度の27(2015)年度は検討の基礎資料となるトキワ荘等に関する基礎調査が実施された。この調査はトキワ荘の構造や外観、内部の間取りや各室のしつらえ、さらにマンガ家たちの当時の活動や周辺にあった店舗等に関する情報を関連文献や映像、関係者へのアンケート・ヒアリング等から拾い集め、鈴木伸一・水野英子・山内ジョージ3氏の監修の下でトキワ荘復元図と椎名町エピソードマップに落とし込んだもので、28(2016)年3月に調査報告書がまとめられている。そしてこの調査をベースとし、同年9月8日、日本漫画家協会常務理事でマンガ家の里中満智子氏を座長に迎え、学識経験者、トキワ荘関係者、マンガ・アニメ関係団体、地域団体、区関係者等29名で構成される「(仮称)マンガの聖地としまミュージアム整備検討会議」が設置され、マンガミュージアムの建設に向けた本格的な検討が開始された。
トキワ荘等に関する基礎調査(報告書)
トキワ荘復元模型

地域ブランドの創出-目白・駒込

 平成18(2006)年3月に策定された基本計画は、新たな地域経営の方針のひとつに戦略的・横断的な施策展開の方針を掲げ、都市間競争が激しさを増す時代に「住みたいまち」「訪れたいまち」として評価され、選ばれるためには、都市や地域としてのブランドを育てていくことが重要であると謳っている。そのブランドを「地域の個性と将来にわたる持続可能性を育てる都市経営に対する信頼」と定義づけ、「住み、暮らし、働き、学び、活動し、交流していくうえで、その地域が提供するハード、ソフトの魅力が総合的に将来にわたって持続されることが信頼であり、その信頼こそが『価値あるまち』をかたちづくる最も重要な要素」であり、「新たな魅力と活力の創造に向けて戦略的に政策相互間の連携を進め、相乗効果を発揮させながら総合的に事業展開を図ることが重要」であるとした。
 この戦略的・横断的な施策展開を促進するため、翌19(2007)年3月に策定された「未来戦略推進プラン2007」では、プランの目標の第一に「文化と品格を誇れる価値あるまちづくり」を掲げ、これを具体化するため文化・健康・都市再生・環境の4つの政策を柱とする「としま未来への戦略プラン」(以下「戦略プラン」)を打ち出した。その中で定住人口・交流人口の増加を図る取り組みとして「地域ブランドの創出」を挙げ、「駒込、巣鴨、大塚、池袋本町、東池袋、西池袋、目白、高田、そして椎名町・長崎など、区内各地域において、地域の人材や教育機関、民間企業との協働を図りながら、美しい街並みやにぎわいの創出、観光、イメージ戦略など、それぞれの歴史と文化、個性を活かした総合的なまちづくりを展開し、地域のブランドを育てていく」としている。当時、いわゆる名品・名産品等に限らず、景観や歴史・文化資源も含め地域固有のブランドとして活用する取り組みが全国的にも広がっており、区もそうした視点から「地域ブランド」に着目したのである。そして戦略プランを構成するプロジェクトのひとつに、目白・駒込をモデル地域とする「地域ブランド創出プロジェクト」が挙げられた。
 前章第2節第2項のワンルームマンション税の導入経緯でも述べた通り、区の住宅ストックは単身者向けの狭小な賃貸住宅に偏っており、それを反映して単身世帯比率が全世帯の約6割に上るなど、ファミリー世帯が定住化しにくい傾向が見られた。また、土地利用の過半は住宅地が占めているにも関わらず、豊島区は池袋副都心を中心とする商業都市としてのイメージが強く、住宅地としてのブランド力は決して高いとは言えない状況にあった。このため区内でも良好な住宅街が形成されている目白・駒込をモデル地域とし、住宅地ブランドの向上を図り、定住人口の増加につなげていこうと企図したのである。
 目白駅に隣接して緑豊かな学習院大学のキャンパスが広がる目白地域は、目白通り沿いの商店街の北側に閑静な住宅街が形成され、その中に屋敷林を保全した目白の森や池泉回遊式の目白庭園等が点在し、区内でも緑被率の高い地域である。尾張徳川家第19代当主徳川義親侯爵邸の敷地内に造られた「徳川ビレッジ」をはじめ古くから高級住宅街として知られ、その徳川義親氏や都市計画家・石川栄耀氏など目白地域に住む文化人が集まって結成された「目白文化協会」をはじめ、いずれも名誉区民であった洋画家・森田茂や落語家・林家小さんなど多くの著名人・文化人が住んでいた。学習院の門前であるためか、山手線沿線駅の中で唯一、駅前にパチンコ店や消費者金融、俗に言うサラ金店舗がなく、住居表示としては目白を外れた周辺地域のマンション等にも「○○目白」と目白の名が付けられるほど、高級住宅街としてのイメージが定着していた。また文化活動の側面では鈴木三重吉による児童文芸誌『赤い鳥』が創刊された地であり、フランク・ロイド・ライト設計の重要文化財自由学園明日館(所在地は西池袋2丁目)や徳川家伝来の美術工芸品・歴史資料の保存・調査研究のために設立された徳川黎明会などの歴史・文化的な資源に恵まれ、そうした土地柄を反映し、目白地域内には個性的なギャラリーが多くあった。さらに昭和59(1984)年に目白にスタジオを持つ三人の舞踏家(現代舞踊:芙二三枝子、日本舞踊:花柳千代、クラシックバレエ:小林紀子)で結成された「目白三人の会」による舞踏普及活動など文化芸術活動も盛んな地域であり、平成17(2005)年には「目白バ・ロック音楽祭」や「目白通りアート・プロジェクト」がそれぞれ初開催されるなど、新たなアートイベントも動き出していた。さらに昭和38(1963)年の発足以来、「地域の玄関口」である目白駅の美化活動に長く携わってきた目白駅美化同好会や、目白の森の保存運動をきかっけに目白地域のまちづくりを牽引している目白まちづくり倶楽部など、自主的な市民活動が根付いていた(※50)。
 一方の駒込地域は江戸時代に染井と呼ばれ、駒込駅から染井霊園に続く染井通りには南側台地の大名屋敷に面し、北側に多くの植木屋が軒を連ね、花卉・植木の一大生産地だった。当時の江戸園芸の代表格である伊藤伊兵衛をはじめ、ツツジや菊などの新種栽培が盛んに行なわれ、四季を通じて花見遊覧で賑わう様子は『絵本江戸桜』に「染井之植木屋」として描かれいる。また日本を代表する桜の品種「ソメイヨシノ」はオオシマザクラとエドヒガンとを交配し、江戸末期から明治にかけて染井の植木屋が「染井」の名を冠して売り出したと伝えられている。そうした大名屋敷や植木屋も時代とともに姿を消し、その跡は市街地化され、地域北部の低地部は木造住宅や木造アパートが密集し防災上の課題を抱えていたが、地域南部の台地上は比較的敷地規模の大きい住宅や非木造のマンション・社宅、学校等が建てられ、落ち着いたたたずまいを見せている。また駒込駅を挟んで西側の六義園周辺(文京区本駒込)もかつて「大和郷」と呼ばれ、旧三菱財閥を築いた岩崎弥太郎により分譲された高級住宅街として知られていた。地域内には幕末から明治にかけて活躍した政治家や学者・文化人が眠る染井霊園ほか、西福寺や染井稲荷神社など神社仏閣が多く、江戸・明治期を偲ばせる歴史・文化資源が点在している。昭和63(1988)年4月、「染井吉野発祥の地」であることを地域の誇りとする住民等により「染井吉野桜記念公園を作る会」が発足され、その要望を受けて平成9(1997)年12月、駒込駅前に「染井吉野桜記念公園」が開園された。また同年4月には地元住民の提案を受け、染井通りに面した民家跡にかつて植木の里と呼ばれた面影をしのばせる「私の庭・みんなの庭」が開設され、住民自主組織「お庭クラブ運営委員会」により自主管理されている。さらに12(2000)年4月、染井吉野桜記念公園で第1回「染井よしの桜祭り」が地域をあげて開催され、14(2002)年には染井銀座商店街が花見酒として駒込ブランド銘酒「染井櫻」を販売開始、17(2005)年3月に架け替え工事が完了した染井橋には駒込地域まちづくり協議会の提案を受けて「ソメイヨシノ」をデザインしたレリーフで欄干を飾るなど、「染井吉野発祥の地」をアピールする様々な取り組みが展開されていた(※51)。
 こうした住宅地として高いブランド力とともに、区民との協働によるまちづくりの土壌が既に育っている目白・駒込地域をモデル地域とし、区は平成19(2007)年度からの新規事業として「地域ブランド創出支援事業」を立ち上げた。またこの事業開始に先立ち、平成17(2005)年度には目白・駒込地域地域で地域ブランドの創出に向けた基礎調査を実施している。この調査では、両地域在住の20歳以上の区民を対象とする意識調査や在勤・在学者、来街者等へのアンケート調査を実施するとともに、あわせて両地域のまちづくり活動に携わる区民等で構成する「地域ブランド創出会議」を設け、各地域固有の魅力や価値を分析し、「地域ブランド」として活用可能な様々なアイデアをアクションプランとしてまとめている(※52)。
 目白地域のアクションプランは産官学民の多様な参加による協議の場を設け、「『道づくり』を核とする景観保全・向上」と「文化・地域資源を活用した都市型観光ビジネスモデルの構築」を柱に、既に地域で実施されている取り組みも含め様々な事業をリンク付けしていくという内容で、一方の駒込地域は地域のシンボルである染井吉野を活用し、地域内では「既存イベントをつなぐ四季を通じた交流の場づくり」と「さくらと子供とエコプロジェクト」を実施し、地域外へは「お散歩まち~回遊性を高めるルートづくり」により「染井吉野発祥の地」を発信していくという趣の異なる内容だったが(図表3-⑦参照)、いずれもそうした取り組みを通じ、「住みたいまち、住み続けたいまち」をめざしていくというものであった。
図表3-7 地域ブランド創出プロジェクトアクションプラン
【目白ブランドの展開イメージ】
【駒込ブランドの展開イメージ】
 この基礎調査に続き、翌18(2006)年度には地域ブランド創出プロジェクトの一環として、目白地域では目白庭園の「ホタルの里」事業と学習院椿の坂記念植樹祭が実施された(※53)。前者は巨費を投じて整備したにも関わらず、認知度が低く十分には活用されていない目白庭園の魅力をアピールするため、同園にホタルビオトープを設置し、飼育したホタルの鑑賞会を開催したもので、7月12日~15日の4日間に1,031人の入場者を得た。後者は地域のまちづくりに取り組む目白まちづくり倶楽部が「通りの名付け親運動」で地域内の通りや広場の愛称を募集し、そのひとつとして「椿の坂」と命名した学習院目白駅側道路の万年塀が改修されたのを機に、坂の名にちなむ椿を地域住民や学習院関係者とともに植樹したものである。
 こうした区の事業に呼応し、地元の目白商業協同組合は平成17(2005)年12月、同じく「通りの名付け親運動」で「四季の広場」と名付けた駅前広場をクリスマスイルミネーションで飾り、また18(2006)年3月には同組合が運営する目白の地域情報発信サイト『目白マガジン』で、学習院大学生が目白のまちを取材し、編集した動画の配信を開始した。また目白まちづくり倶楽部も18年(2006)年8月、地域内の文化的、歴史的資産を調査研究し、地域の回遊ルートや沿道整備案まとめた報告書「地域資産とまちづくり」を区長に提出した。さらに前年に続き2回目の開催となった「目白バ・ロック音楽祭」では同音楽祭実行委員会と区、大学が協働し、「目白地域のブランディングを考えるシンポジウム」(6月10日、学習院大学)や区民向けの公開リハーサル(6月11日、立教大学)を開催した(※54)。
 一方、駒込地域においても平成18(2006)年、駒込地域文化創造館を事務局として地元町会や商店街を中心に「駒込ブランドプロジェクト実行委員会」が発足し、同年度の新規事業「都市型観光ブランド事業」の一環として、地域内の桜の分布状況や桜の名所・旧跡を巡る散策コースを紹介する「桜マップ」を作成するとともに、桜にまつわるメッセージを全国から募集し、入賞作品を冊子「桜物語」にまとめ、それを19(2007)年3月21日に染井銀座商店街で開催された「染井櫻開花祭り」で配布した(※55)。
 また18(2006)年8月22日、区は地域の防災性向上を図る居住環境総合整備事業用地として駒込3丁目の丹羽家邸跡地(1110.87㎡及び私道部分146.59㎡)を約5億6千万円で取得した。丹羽家は江戸時代の天明年間(1780 年代)から明治末期まで染井(現駒込)を代表する植木職人で、当地域の地主としても知られた旧家であった。同家の門(旧丹羽家腕木門)は染井通りを挟んで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したものと伝えられ、江戸時代末期の建築と推定される簡素な構造ながらも格式のある門で、19(2007)年8月3日に区指定有形文化財に指定されている。また敷地北西角に建つ蔵(旧丹羽家住宅蔵)は丹羽家8代目茂右衛門により昭和11(1936)年に建築された地上2階地下1階の鉄筋コンクリート造りの蔵で、内装・外装ともに職人や建築主のこだわりが随所に施され、旧家の住宅蔵の特徴をよく表わしている事例として20(2008)年3月7日、国登録文化財に登録されている(※56)。区はこの門と蔵を残して母屋は取り壊し、地域の広場として活用していく方針で駒込地域まちづくり協議会と検討を重ねながら、18~19(2006~2007)年度に門・蔵の修理方針検討調査や広場の設計、文化財調査等を実施した。
 平成19(2007)年度からスタートした「地域ブランド創出支援事業」は、これら先行的な取り組みを「地域ブランド」という枠組みで括り、ハード・ソフト両面から分野横断的に展開していく事業であった。同事業そのものは23(2011)年度をもって終了しているが、その後も目白・駒込地域ではそれぞれの「地域ブランド」を活かしたまちづくりが地域区民との協働により展開されている。
 平成19~23(2007~2011)年度の5年間に実施された主な事業及びその後の展開の概要は以下の通り。
○目白ブランド創出支援(目白バ・ロック音楽祭関連事業)(※57)
 「目白バ・ロック音楽祭」は民間組織である目白バ・ロック音楽祭実行委員会の主催により、平成17~20(2005~2008)年にかけて毎年6月に開催された。目白及び周辺地域に点在する目白聖公会、東京カテドラル聖マリア大聖堂、聖母病院チャペル、自由学園明日館講堂、和敬塾などの教会や歴史的建造物等を会場に、バロック音楽に特化した演奏会をはじめ、シンポジウム・展示会など多彩なイベントを展開するユニークな音楽祭として注目を集め、4年間で有料公演72回、来場者は11,760人に及んだ。イベント名の「バ・ロック」は、目白という「バ=場」に「ロック=先鋭的な活動をしている人」が集まるというこの音楽祭のイメージを表現したもので、「社会のIT化が進み、人との関係性が希薄になっていく時代だからこそ人と人とが真剣に向かい合う《場》を創りたい」との主旨に基づくものであった。「音楽を楽しむ」と「街を楽しむ」の2本立ての企画により、コンサートの余韻に浸りながら目白を散策してもらおうと、「Visit Mejiro」をテーマに街歩きや地元商店等と連携した企画商品販売なども実施された。区は同音楽祭を後援するとともに、実行委員会との共催により18(2006)年度のシンポジウに続き、19(2007)年度は区内高齢者福祉施設への「宅配コンサート」開催、20(2008)年度は副都心線開業記念事業として目白小学校での「本物体験コンサート」や「プロムナードコンサート」などを実施した。
 小さな民間組織による挑戦的な音楽祭としてメディアでの評価も高かったが、残念ながら4年間で「第1幕」としての「目白バ・ロック音楽祭」は終了となった。だがその間に地域と連動した様々な取り組みが展開され、保守的な気風の目白の街に新風を送り込み、地域ブランディングの可能性を示したと言える。その成果を「第2幕」に活かすため、音楽祭終了後の21~23(2009~2011)年度には文化プロデューサー育成のための連続講座「目白ブランディング講座」を開催し、文化プログラムを実現する上での様々な壁をどうすれば解決できるかを参加者全員で考え、最終年度には参加者が企画したイベントを実際に開催する実験的な試みが行なわれた。
目白バ・ロック音楽祭2006
目白バ・ロック音楽祭2007
目白バ・ロック音楽祭2008
○目白地区「ホタルの里」事業(※58)
 目白庭園の魅力度向上を図るため平成18(2006)年度にスタートし、19(2007)年度には庭園内の赤鳥庵でコンサート・寄席などを開催する「目白庭園イベント事業」との二本立てで実施されたが、翌20(2008)年度をもって両事業とも終了となった。この間の19(2007)年度に実施された外部評価で「本来そこに生息できない生き物(ホタル)を連れてきて放すようなことはすべきでない」「地域ブランドの形成は、民間や区民を担い手として進めるのが望ましく、行政が無理をして創り上げるものではない」等の意見が評価委員から出され、「経営改善、または事業の見直しが必要」との評価を受けた。そうした厳しい評価を受けはしたが、これは17(2005)年度から目白庭園に指定管理者制度を導入したものの、依然として十分には活用されていなかったため、区の主催事業によりてこ入れしたものだったのである。事業終了後は指定管理者による自主事業へとシフトし、以後、指定管理者により年間を通して様々なイベントが開催されるようになり、特に25(2013)年度からスタートした「秋の庭園ライトアップ」は毎年好評を博している。
目白庭園ホタル放流
目白庭園ライトアップ
○目白駅周辺の区道整備(※59)
 平成18(2006)年8月に目白まちづくり倶楽部から提出された「地域資産とまちづくり」の提言を踏まえ、区は同倶楽部が命名した「F.Lライトの小径」の改修及び「学習院椿の坂」の電線地中化について翌19(2007)年度から検討を開始した。「F.L.ライトの小径」は目白駅から山手線沿いに池袋に向かう区道で、フランク・ロイド・ライトの設計になる重要文化財「自由学園明日館」へと続いていた。しかし道幅が狭く歩行者は通行車両を避けながら歩かねばならない状況であったため、線路沿いののり面を改修して遊歩道を整備する構想が提言されたのである。一方、目白駅東側の「学習院椿の坂」は歩道上の電柱が歩行者の障害になっていたため、これを地中化してさらなる安全性・快適性に加え、景観の向上を図ろうとするものであった。地元懇談会を設け21(2009)年度まで検討が進められたが、「F.Lライトの小径」についてはのり面の管理者であるJRとの調整が難航し、また「学習院椿の坂」の電柱地中化についても工事手法等についてなお検討が必要であったため、いずれも一時休止とされた。その後、「学習院椿の坂」の電柱地中化については平成29(2017)年度~令和元(2019)年度に電線共同溝整備工事が施工され、令和2(2020)年3月に無電柱化が完了している。
学習院椿の坂
F.L.ライトの小径
○目白古道(仮称)の整備(※60)
 平成21(2009)年、目白地域内の「道づくり」に関する提案を行なってきた目白まちづくり倶楽部は、次に「目白古道(仮称)」のコミュニティ道路化の調査研究に取り掛かり、翌22(2010)年度の国土交通省「住まい・まちづくり担い手事業」の支援対象団体に選定された。この担い手事業は国が直接、地元団体に財政支援を行なう制度で、同倶楽部の応募概要は生活道路である区道のコミュニティ道路化を軸に、住宅地の生活空間の質的向上と歩行者を主役とする安全安心なまちづくりを実現することを目的とし、その中でも特に優先的に取り組む道路として「目白古道(仮称)」を挙げていた。この目白古道とは、目白駅と椎名町をつなぎ、目白地域の住宅街を通貫する区道で、古くは徳川将軍の御狩り場であった鼠山の北側を東西に走る道筋にあたることからこの仮称が付けられたものである。住宅地の生活道路であるにもかかわらず、目白通りを迂回して山手通りから明治通りへの抜け道となっていたため車の通行量が多く、歩行者の安全面で課題を抱えていた。21(2009)年9月に同倶楽部が行なった交通量調査(7時~19時)では、車の通行量が住宅地4種4級道路の計画交通量500台の3倍近い1,400台にのぼり、制限速度時速30kmのところ朝の時間帯は40%、昼には60%がオーバーしていることが判明し、予想を超えて危険な状態となっていた(2009年12月1日付『目白新聞』)。さらに平成24~26(2012~2014)年度に改築が予定される目白小学校の工事期間中には仮校舎となる旧真和中への通学路になることからも、早急な対応が求められた。
 22(2010)年4月、同倶楽部は目白地域6町会長とともに区長に面会し、これまでの調査研究内容を報告するとともに目白古道延長2kmのコミュニティ道路化を提言した。また国土国土交通省の助成を得て、6月には活動母体となる「目白地域・みちとまちの会」が発足、さらに翌23(2011)年6月には目白2~5丁目に新宿区下落合3丁目も含めた目白古道沿道の全町会代表、商店会、地域団体等の代表で構成される「目白地域協議会」が発足した。また同協議会の下に具体的、専門的事項を検討するワーキンググループとして目白まちづくり倶楽部メンバーを中心に「コミュニティ道路検討委員会」が設置され、同協議会を窓口として随時、区に提案を行なっていった。
 こうした地元要望を受け、区は平成23(2011)年度からの新規事業として「目白古道(仮称)の整備」に着手し、段階的に整備事業を進めていった。24(2012)年度に目白駅より西側約1.6km部分で通行車両のスピード抑制を図る交差点等安全対策工事を実施したのに続き、目白小学校の改築工事にあわせて同校北側道路の歩道整備や沿道緑化を行なうとともに無電柱化の検討も進められ、26(2014)年には明治通りからの右折侵入を止めるポラードを設置し、通り抜け車両はほぼ解消された。また前述した「学習院椿の坂」の電線共同溝整備工事もこの事業の枠組みの中で実施されたものであり、さらに目白駅西側階段状の「銀鈴の坂」のバリアフリー化工事も並行して進められ、令和2(2020)年3月、エレベーター建屋上部に坂の名にちなんだ銀の鈴が飾られ、1日5回、定時に童謡「赤い鳥小鳥」のメロディが流れる「銀鈴の塔」が完成した。こうして目白地域では、目白まちづくり倶楽部をはじめ地域住民との協働により、「住みたいまち・住み続けたいまち」のモデルとなるまちづくりが現在も展開されている。
目白街づくり倶楽部「みちづくり」提案
銀鈴の坂
○駒込ブランド創出支援(※61)
 平成18(2006)年度の桜マップと桜メッセージ集の作成に続き、19(2007)年度以降も駒込地域内で撮影された桜の写真を公募する「さくらフォトコンテスト」や、「駒桜」と呼ばれ地域のシンボルとなっている駒込小学校校庭の桜を基準木とする「開花予想クイズ」など桜をテーマに様々なプロジェクトが実施された。また地元の女子栄養大学も協力し、区内小学生から募集した絵をもとに同大学が運営するレストラン松柏軒で花見弁当を作り、地域の祭りで販売された。豊島区観光協会も20(2008)年から、公募により選出した「ソメイヨシノ桜の観光大使」を区内外のイベントに派遣する事業を平成20(2008)年から開始するなど、地域をあげて「染井吉野発祥の地」をアピールする取り組みが展開された。
 こうした地域主体の取り組みを支援するため、区は19(2007)年11月に「駒込地域ブランド創出プロジェクト補助金交付要綱」を制定し、駒込ブランドの創出を目的とする地域住民団体等が実施する各種事業について、予算の範囲内ではあるものの事業経費の全額を助成する仕組みを作った。この点では民間によるビジネスモデルを目指した「目白バ・ロック音楽祭」とは性質を異にするが、地域の町会や商店街が主体となる活動にはそれだけの財政支援が求められたと言える。そして地域ブランド創出支援事業終了後も、25(2013)年度に事業名称を「サクラネットワーク形成事業」に改め、さらに27(2015)年度には「ソメイヨシノプロジェクト推進事業」に引き継いで事業の拡充を図っていった。
 その一環として区は平成25(2013)年3月22日、区議会の議決を経てソメイヨシノを意匠したシンボルマークを制定した。このシンボルマークは区制施行80周年を記念し、ソメイヨシノのほか豊島区のイニシャル「T」やフクロウなど、6種類のデザインの中から区民アンケートにより選ばれたものであったが、2位以下を大きく引き離して回答数5,376件中2,009件を集めた。次点の作品も1,077件を集めたが、その作品もソメイヨシノを模した別デザインであり、改めて区の木「ソメイヨシノ」が多くの区民にとっても豊島区を代表するイメージとして受け止められていることが窺えた。そこで駒込ブランドであるばかりでなく豊島区のシンボルでもあるソメイヨシノを全国に発信していこうと、翌4月には桜を地域振興に活用している全国自治体が加盟する「全国さくらサミット」に初参加し、5年後の30(2018)年10月には加盟15自治体を招いて「全国さくらサミットin豊島」を区庁舎議場で開催した。また26(2014)年11月に公益財団法人「日本さくらの会」から寄贈された「ワシントン DC から里帰りしたソメイヨシノ」の苗木を染井吉野桜記念公園に植樹し、翌27(2015)年4月に同園で開催された「染井よしの桜まつり」でお披露目した。この日本さくらの会は東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年に、日本を代表する花「さくら」の愛護・育成・普及等を目的に超党派の国会議員有志により設立され、桜の植樹事業を実施するほか、桜の育成・愛護に功績のあった個人・団体を「さくら功労者」として毎年顕彰している。30(2018)年に開催された「全国さくらサミットin豊島」では駒込小学校児童が発表した『駒小サクラ物語』(地域と連携しながら6年間で桜を学ぶユニークな総合学習活動)が評価され、同年度の「さくら功労者」表彰を受賞している。
 一方、駒込地域においてもそれまで桜まつりなどの地域イベントが桜の開花時期である3~4月に集中していたことから、四季を通じて「染井吉野発祥の地」をアピールしていこうと、25(2013)年11月、「染井よしの桜のふる里秋祭り」が初開催された。さらに「駒込駅周辺年中さくら計画」と銘打ち、28(2016)年4月にリニューアルした駒込駅に隣接する区民ひろば駒込等4つの区施設が入る複合施設の改修にあたり、施設全体の内装やサイン等を桜のデザインで統一した。同複合施設内の駒込第三保育園の園庭に桜のモチーフが入った大型複合遊具を設置、駒込地域文化創造館のエントランス部分には駒込の歴史やソメイヨシノに関する地域情報を集めた「ソメイヨシノアーカイブ」、また駒込図書館には桜に関する資料を集めた「ソメイヨシノライブラリー」を設けた。  こうして、JR駒込駅の発車メロディ「さくらさくら」を聞きながら改札を出ると豊島郵便局が設置したさくらポストが出迎え、駅前の染井吉野桜記念公園を抜けると、複合施設入口にソメイヨシノとフクロウをモチーフとした区のキャラクター「そめふくちゃん」のフォトスポットが設置され、駒込の玄関口は桜一色となっている。
「染井吉野櫻発祥之里駒込」記念碑
ソメイヨシノ桜の観光大使
駒込小学校「さくら功労者」表彰状贈呈式
○ソメイヨシノプロジェクト(※62)
 平成20(2008)年3月14日、区は住宅市街地総合整備事業用地として土地開発公社が先行取得した駒込6丁目の日本興業銀行(社宅)跡地(3,756.44㎡)を約19億8,500万円で買い戻した。そして同年7月から翌21(2009)年3月まで整備工事を施し、3月28日の開園式を経て4月1日に「染井よしの桜の里公園」として開園した。
 18(2006)年度の駒込3丁目の丹羽家跡地約1,200㎡に続く用地取得で、2件合わせた取得費は25億円を超えるものとなったが、いずれも周辺木密地域の防災性向上のための貴重なオープンスペースであった。これに先立つ平成15(2003)年、駒込中学校に隣接する駒込4丁目JR駒込社宅跡地(14,281.88㎡)について地元住民の強い要望を受け、区は防災公園整備に向けて用地取得に動いたが、JR側がより評価額の高い民間不動産会社に売却したことにより断念せざるえなかった経緯があり、機を逃すことなく用地取得に至ったものであった。
 このため両用地とも防災機能を有する公園・広場として整備されることになったが、あわせて「染井吉野発祥の地」をアピールするための活用を図っていくこととした。両用地の周辺はかつて植木屋が集住していた中心部にあたり、植木屋たちの菩提寺である西福寺門前や駒込小学校周辺の桜並木をつなぐ「桜の回廊」の拠点施設に位置づけられた。このうち日本興業銀行跡地には、取得用地のうち道路拡幅協力者等の移転先として活用する事業用代替地を除く2,669㎡に公園が整備され、ソメイヨシノ14本を含む32本の桜が植えられた。さらに事業用代替地約900㎡の一角に苗床を設け、そこで育てた駒込生まれのソメイヨシノを区内の小中学校や公園、さらに全国にも送り出そうというプロジェクトが始まったのである。
 開園に先立つ平成21(2009)年3月7日、地元住民参加の自主グループ「染井吉野研究会」による桜の接ぎ木作業からプロジェクトはスタートした。戦災により消失した桜並木を復活させようと、西福寺や染井稲荷のソメイヨシノから採った枝100本をオオシマザクラの台木に接ぎ木して増やし、それを公園内の苗床に移して育てていこうという計画で、同年11月21日、1mほどに育った80本のソメイヨシノの苗木が苗床に植え付けられた。この最初の接ぎ木が採られた西福寺門前の桜並木は、今でこそ駒込地域の桜名所のひとつになっているが、戦災による消失後、同寺住職の呼びかけで町をあげて復活させたものと言われ、駒込生まれのソメイヨシノの育成にはそうした先人たちの努力を引き継いでいきたいとの思いも込められていた。
 以後、駒込小学校の駒桜など地域ゆかりのソメイヨシノの枝から接ぎ木した苗木を育て、区内小中学校や公園等に植樹していった。そうしたなか、東日本大震災後の風評被害に苦しむ福島県に元気を届けようと、平成24(2012)年12月8日、区外への植樹第1号となる15本の苗木が同県猪苗代町の区施設「猪苗代四季の里」に植樹された。この植樹は、駒込中学校の生徒たちがボランティアグループ「チームハチドリ」を結成し、保護者らとともに復興支援チャリティーバザーなど支援活動を続けていたことから、校外学習活動の場として利用していた「猪苗代四季の里」に駒込生まれのソメイヨシノを植樹したいと発案したことが実現に至ったもので、植樹当日には同校生徒代表も猪苗代へ出向き、式に参加した。この第1号の植樹をきっかけに、その後も姉妹都市秩父市(2013年10月)をはじめ交流都市への植樹は年々広がっており、駒込生まれのソメイヨシノを地域の誇りとして全国に発信するとともに、桜を通じた都市間交流が図られてる。
染井吉野研究会・桜の接ぎ木
染井吉野桜の里公園(苗木)
○旧丹羽家の門と蔵の活用(※63)
 一方、染井よしの桜の里公園と並行して整備が進められた丹羽家跡地については、平成19(2007)年度に駒込地域まちづくり協議会により開催されたワークショップからの提案を踏まえ、災害時に救援センターとなる駒込小学校を補完する防災広場としての機能をもたせるとともに、文化財である門と蔵を活かした児童遊園として整備することになった。20(2008)年9月から21(2009)年3月まで整備工事が行なわれ、染井よしの桜の里公園と同日の21(2009)年4月1日に開園した。
 広場のシンボルのひとつである「旧丹羽家住宅蔵」については、国登録文化財として保存しつつ活用していくこととし、翌22(2010)年2月3日、区は「染井よしの桜の里駒込協議会」と「旧丹羽家の蔵の地域活用に関する協定」を結んだ。この協定に基づき、以後、同協議会の自主運営により蔵の一般公開(土・日・祝日)のほか、「染井吉野発祥の地」の発信拠点として、「さくらフォトコンテスト」の受賞作品展や地域の歴史文化を紹介するパネル展示等が行なわれている。
 なおこの「染井よしの桜の里駒込協議会」は、駒込地域に新たな公園と広場が整備されるのを機に、21(2009)年5月、それまでの「駒込ブランドプロジェクト実行委員会」を発展させ、ソメイヨシノの国内外への普及とソメイヨシノをテーマとしたまちづくりに貢献するという会の目的に賛同する個人・団体により、21(2009)年5月に設立された。設立以降、蔵の公開事業のほか、交流都市へのソメイヨシノ植樹、さくらフォトコンテストや開花予想クイズ等関連イベントの実施、散策マップ「桜物語」の作成・配布等々、駒込地域での桜ブランドづくりを進めていく上で地域を束ねる役割を担っている。
門と蔵のある広場
蔵の活用(さくらフォトコンテスト写真展)

歴史と文化のまちづくり-雑司が谷

 平成21(2009)年6月17日、雑司が谷の法明寺書院に地域の町会、商店街の代表、郷土史家の矢島勝昭氏や伊藤榮洪氏等の歴史・文化まちづくり関係者約30名が集まり、「雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会」が開催された。この懇談会は高野区長の呼びかけにより、今後の雑司が谷のまちづくりの方向性について意見交換する場として開催されたものであった(※64)。
 雑司が谷地域は江戸時代から安産・子授けの神として広く信仰を集めた鬼子母神の門前町として開け、往時には参道の両側に料理茶屋が軒を連ね、多くの参詣客で賑わったという。その風景は『江戸名所図会』や歌川広重の『江戸高名会亭尽 雑司ケ谷之図』などの浮世絵に描かれ、雑司が谷を謳った俳句や川柳も多い。戦災による焼失被害が比較的少なかったため、そうした江戸の面影が漂う街並みが残され、池袋副都心に隣接していながらも都会の喧噪とは無縁の静かなたたずまいを見せるまちである。また区内最古の木造建造物である鬼子母神堂をはじめ、法明寺や大鳥神社等の神社仏閣、雑司が谷旧宣教師館、雑司ヶ谷霊園などの歴史・文化資源に恵まれ、古くから多くの文化人に愛されたまちでもある。その雑司が谷地域が前年6月の東京メトロ副都心線開通、雑司が谷駅開業に伴い街歩きスポットとして注目を集め、雑司が谷を訪れる新たな人の流れが生まれていた(※65)。また前述したトキワ荘との関連で、手塚治虫がトキワ荘から引っ越した並木ハウスが鬼子母神参道の裏手に現存しており、その活用も課題となっていた。
 こうしたことから区は目白・駒込での地域ブランド創出プロジェクトに続き、平成21(2009)年度からの新規事業として「トキワ荘・並木ハウス関連事業」を立ち上げ、椎名町と雑司が谷の両地域で地域の文化資源を活用したまちづくりをスタートさせた。「雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会」もこの事業の一環として開催されたものであったが、この事業名にある並木ハウスにとどまらず、区は雑司が谷地域のまち全体を歴史・文化資源としてとらえていた。また懇談会場を提供した法明寺近江正典住職がその席上で「変わることだけが発展ではなく、変わらないことだけが伝統でもない。雑司が谷の素晴らしさを受け継いでいきたい」と語っていたように、区も雑司が谷地域の街並みを大きく変えるようなまちづくりを意図してはいなかった。折しもこの懇談会が開かれた当時、区の新庁舎整備計画にも大きな動きがあり、20(2008)年9月に策定した「新庁舎整備方針」で南池袋2丁目の日出小学校跡地を最優先の整備予定地とし、翌21(2009)年7月にはその新庁舎整備を含む「南池袋二丁目A地区市街地再開発事業」が都市計画決定された。この整備予定地は雑司が谷と接する街区であったが、区長としてもまちの姿を変える開発はこの新庁舎までであって、その奥の雑司が谷の街並みはできる限り保存していきたいという考えだったのである。
 こうして雑司が谷地域では歴史・文化資源の保存・継承に重点を置いたまちづくりを進めていくこととし、初回開催以降もほぼ月に1回のペースで懇談会での意見交換を重ね、その中から様々なアイデアを拾い出していった。
 そして平成22(2010)年7月、そのアイデアのひとつを具体化するものとして、平成22(2010)年7月、鬼子母神参道に「雑司が谷案内処」がオープンした。この案内処は並木ハウスの手前、参道に面して建つ2階建て5軒棟割構造の「並木ハウスアネックス」の1軒を区が借り上げて改装し、雑司が谷地域の魅力を広く発信していく情報ステーションとして開設したもので、郷土資料館友の会代表の小池陸子氏ら地域住民等をメンバーとする「雑司が谷案内処応援倶楽部」が運営スタッフとして案内役を担っている(※66)。
 案内処の1階では雑司が谷の観光・イベント情報の提供や鬼子母神ゆかりの郷土玩具等の展示販売を行なうほか、レンタルボックスを設置して手作り品の物販等に貸し出した。また2階ギャラリーでは雑司が谷遺跡(鬼子母神参道料理茶屋跡)から出土した埋蔵文化財を展示する「雑司が谷まちかど遺跡ミュージアム」等の歴史・文化資源の紹介や、NPO 法人東京を描く市民の会の「カメラと絵筆 残したい雑司が谷の景観」、池八十次氏「豊島三十六景原画展」など地元芸術家の作品展が開催され、来処者は開設1年目で3万人、3年目には10万人を超えた(※67)。
 この案内処は並木ハウスと並木ハウスアネックス双方のオーナーである砂金宏和氏の協力を得て具体化に至ったものであり、同氏も「雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会」のメンバーのひとりであった。なお手塚治虫が昭和30~32(1955~1957)年に暮らした並木ハウスは昭和28(1953)年築の木造2階建てモルタル仕上げで、型ガラスの入った木製サッシュの窓に鉄製の手すりといった外観は当時大量供給された木賃アパートの典型的な形であるが、床の間付の4.5畳、6畳、3畳+6畳と部屋タイプが多様でトイレ・洗濯室等ゆとりを持った共用部を有し、同時期の木貸アパートとしては高い仕様の建物である。また並木ハウスアネックス((砂金家長屋)は昭和7(1932)年築の木造2階建、正面が洋風の5軒棟割の看板建築建物として1階が仕事場(店舗)、2階が住まいの兼用住宅として使われていた。5軒の棟割りで全体間口が10問(約18m)あり、木造看板建築としては大きな建物で、黄土色の洗い出し仕上げと2階窓部分を金属貼とした水平性を強調したシンプルな意匠はモダンで同時代の先駆的な商業建築である。いずれも平成21(2009)年に建物の保全と機能の更新を考えた再生(修復)が施され、30(2018)年5月に国の有形文化財に登録されている(※68)。
 一方、区は雑司が谷案内処の開設準備に並行し、21(2009)年度に雑司が谷地域の街歩きルートを企画するワークショップを開催、さらに翌22(2010)年度には前年度のステップアップ講座として、実際に街を案内するノウハウを学ぶ「雑司が谷ボランティアガイド養成講座」を開催した。23(2011)年5月、この講座の修了生を中心に「雑司が谷案内処応援倶楽部」のメンバーでもある小池陸子氏が会長となり、ボランティアガイドの自主グループ「としま案内人雑司ヶ谷」が設立された。同会は案内処を拠点に、雑司が谷を訪れる来街者はもとより小学生の社会科見学等の案内を行なうなど、雑司が谷の歴史・文化資源を広く伝える活動を展開している。またこの講座で企画された街歩きルートをもとに、「雑司が谷の歴史と文化を感じる まち歩きガイドマップ」を作成、23(2011)年元旦から案内処での頒布を開始した(※69)。
 歴史・文化資源が豊かな雑司が谷地域では、副都心線開通以前からも地域の人々により様々な活動が行なわれていた。その中でも毎年10月16~18日に開催される御会式大祭は江戸時代から続く雑司が谷地域最大の年中行事で、この大祭を奉賛する御会式連合会には21の講社が参加し、地域住民相互をつなぐ紐帯としての役割を果たしている。和紙で作られた500の桜花を25本の枝に結んだ枝垂れ桜様の万灯が何台も練り歩く御会式万灯練供養には地域の老若男女がこぞって参加し、いつもは静かな雑司が谷もこの日ばかりは団扇太鼓の音が街じゅうに鳴り響く。この御会式は、もともとは日蓮宗祖日蓮の忌日(10月13日)に聖人を供養する宗教行事で鬼子母神の本坊である法明寺では法会が開かれるが、これとは別に享和・文化文政年間(1801~1830年)から鬼子母神の万灯練供養が行なわれてきた。平成27(2015)年3月、区はこの「雑司が谷鬼子母神御会式万灯練供養」を200年にわたり親から子へと代々受け継がれてきた地域の祭事として、無形民俗文化財(風俗習慣)に指定した(※70)。
 また鬼子母神参道の大門ケヤキ並木は天正年間(1573~1592年)に雑司ヶ谷村の住人長島内匠が奉納したと伝えられ、樹齢400年を超える巨木の樹影は石畳の参道に四季折々の彩りを添えている。ケヤキ並木が法明寺所有から東京府へ移管されるのに伴い、秋田雨雀ら地元愛好家らの保存運動により昭和15(1940)年4月、東京府(現在は東京都)の天然記念物に指定され、その後も地元有志により設立された「鬼子母神大門欅並木保存会」により朝昼晩の落ち葉掃除をはじめ、半世紀以上にもわたる保存活動が続けられている。昭和10年代に18本あった大径のケヤキは立ち枯れ等により現在では4本を残すのみとなったが、徐々に若木への植え替えが進められており、平成27年(2015)12月には後述する日本ユネスコ協会連盟「未来遺産」登録1周年を記念し、雑司が谷案内処前の枯木跡地に地元の南池袋小学校児童らにより「記念植樹」が行われた。なお樹齢700年と伝えられる鬼子母神境内の大イチョウは昭和31(1956)年8月、都の天然記念物に指定されている。また区は平成28(2016)年3月に景観計画を策定し、この鬼子母神の大イチョウを「景観重要樹木」に、雑司が谷旧宣教師館を「景観重要建築物」に指定したのに続き、30(2018)年3月の同計画改訂時には雑司が谷地域を景観形成特別地区に指定するとともに、鬼子母神大門ケヤキ並木道を「景観重要公共施設」に指定した。この「景観重要樹木」「景観重要建築物」「景観重要公共施設」はいずれも景観法に基づく制度で、指定により各所有者等には適正な管理保全が求められ、大門ケヤキ並木も参道の石畳、その他道路構造物を含めた街並みの保全が図られることになった(※71)。
 同じく景観法に基づき「景観重要建築物」に指定された雑司が谷旧宣教師館は、明治40(1907)年にアメリカ人宣教師J.M.マッケーレブ(ジョン・ムーディー・マッケーレブ)が布教活動の拠点兼自宅として建てた区内最古の木造2階建ての洋風建築で、建物全体はシングル様式、細部の意匠にはカーペンターゴシック様式が用いられ、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有している。マッケーレブは日米開戦の昭和16(1941)年に帰国するまでの34年間をここで暮らし、布教活動のほか幼児や青年たちへの教育活動に情熱を傾けた。その後、宣教師館は2度転売され、昭和57(1982)年にマンション建築計画が持ち上がり、取り壊し寸前のところを近隣住民の保存運動を受けて区が土地・建物を取得し、建物調査・保存修復工事を経て平成元(1989)年1月から資料館として一般公開している。都内でも数少ない貴重な明治時代の宣教師館として、昭和62(1987)年 9 月に区登録有形文化財、平成 4 (1992)年 11月に区指定有形文化財を経て、平成11(1999)年3月に都の指定有形文化財(旧マッケーレブ邸)に指定された。平成元(1989)年の開館以来、保存運動の中心メンバーであった前島郁子氏ら住民グループにより、毎年5月第2日曜の母の日にガーデンコンサートが開催された。また前島氏は開館同年に雑司が谷地域のタウン誌「わがまち雑司が谷」を創刊、90歳を超えて高齢を理由に61号で終刊するまで23年間にわたり発行し続け、さらに平成7(1995)年以降、城北大空襲の犠牲者を悼み南池袋公園で毎年開催される「根津山小さな追悼会」の初代代表も務めた。  また旧宣教師館では平成15(2003)年4月に詩人・小森香子氏による「おばあちゃんのおはなし会」がスタート、児童文芸誌『赤い鳥』に掲載された児童文学作品や詩を朗読するこのおはなし会は修復工事等による旧宣教師館の休館中を除き毎月開催され、令和2(2020)年11月には記念すべき200回を迎えた。文化財を活用したこうした事業活動が評価され、平成17(2005)年3月、雑司が谷旧宣教師館は東京文化財ウィーク2004の最高賞である「東京都知事賞」を受賞している(※72)。
 夏目漱石・小泉八雲・泉鏡花・永井荷風・竹久夢二ら多くの文人・著名人が眠る都営雑司ヶ谷霊園は一部掃苔家等には知られた墓地であったが、近年のいわゆる「墓マイラー」ブームにより雑司が谷の街歩きルートの中でも人気スポットのひとつになっている。その一方、昔からの狭い路地が入り組んでいる雑司が谷は防災危険度が高く、雑司ヶ谷霊園はこの地域の避難場所に指定されている。だが平成10(1998)年当時、都が管轄する霊園の周囲は老朽化した万年塀で囲われており、震災時に崩落し避難路を塞ぐ恐れがあった。このため「雑司が谷地区まちづくり協議会」(前・雑司が谷墓地周辺地区不燃化促進協議会)では、かねてより万年塀を撤去して緑豊かな散策道を作ることにより、防災避難道としての機能と生活環境の向上を図る「インナーリンク構想」を提言していた。都が平成10(1998)年から3か年の計画で万年塀の改修を実施するにあたり、同協議会は地元の要望を取りまとめて都との協議を重ね、これにより当初は鉄板でのフェンス化の方針であった計画は生垣を中心とした整備に変更された。その第1期工事が完了した11(1999)年3月、同協議会を母体に生垣の維持管理を行う住民ボランティア組織「緑のこみちの会」が結成された。以後、同会は生垣の管理のほか霊園内の花の植え付けや清掃活動を継続的に行なっており、平成14(2002)年には江戸時代の古地図『武蔵国豊島郡雑司谷村絵図』に記されている「鬼子母神道」(きしもじんどう:霊園南側)、「御鷹部屋道」(おたかべやどう:霊園東側)、「御鷹方御組屋敷道」(おたかがたおくみやしきどう:霊園北側)の古名とその由来を紹介する案内板 3 基を設置した(※73)。
 この3基の案内板の制作に携わったのが雑司が谷地区まちづくり協議会の会員でもあった郷土史家の矢島勝昭氏である。雑司が谷に生まれ育った矢島氏は「雑司が谷の鎌倉街道」などの郷土史研究をライフワークとし、「豊島区史」(資料編第三巻)に収録されている江戸時代の地誌・随筆類50編から鬼子母神で知られる旧雑司が谷地域を抜き出し、現代語訳した『江戸地誌五十編・雑司が谷風土記』を平成9(1997)年に自費出版した。また絵を描くのが得意であったことから、区の刊行資料に自作のイラストを提供するほか、前島郁子氏らとともに「根津山小さな追悼会」の開催に携わり、平成7(1995)年8月に南池袋公園内に建てられた「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」に戦時中の防空壕のスケッチ画を描き、同会の10周年記念文集のイラストも手がけた。11(1999)年には戦前から1990年代にいたる池袋・雑司が谷の移り変わりを描いた『画集二十世紀の情景 -池袋・雑司が谷-』を、15(2003)年には小池陸子氏ら郷土資料館友の会とともに『昭和思い出の日々-画文集 昭和10~15(1935~40)年頃の思い出-』を刊行した。また江戸時代に鬼子母神の参詣土産として売られ、時代とともに姿を消した「元禄五色のかざぐるま」「寛延の麦わら細工の角兵衛獅子」の郷土玩具をそれらが描かれた浮世絵や史料をもとに復元し、小池氏らと「雑司が谷郷土玩具伝承会」を立ち上げて区民や小学校の授業でその作り方を教える活動も行なった。さらに雑司が谷の歴史を子どもたちに伝えたいとかるたや紙芝居、絵本等の制作にも取り組んだ。18(2006)年5月には、南池袋一丁目町会渡邉隆男会長の働きかけにより、その「雑司が谷いろはかるた」の絵札47枚の絵をすいどーばた美術学院の学生たちがビックリガートの壁面に描いた壁画が完成、さらに南池袋公園のリニューアルや新庁舎整備の工事期間中の仮囲いに、矢島氏の画文集『二十世紀の情景』や鎌倉街道を辿る絵が描かれ、氏の業績の数々が地域の中で活用された。そして令和4(2022)年11月に椎名町(南長崎)に開設された「トキワ荘通り昭和レトロ館(昭和歴史文化記念館)」の一室に「矢島勝昭 昭和のくらしギャラリー」が設けられ、同氏の原画や収集した史料等が展示された(※74)。
 一方、鬼子母神ゆかりの郷土玩具として現代まで伝承され続けてきた「すすきみみずく」だが、平成22(2010)年5月に最後の作り手が引退して店じまいすることになり、その継承が途絶える危機に直面した。この危機に法明寺住職はじめ地元の町会、商店街関係者らが立ち上がり、 9 月に「すすきみみずく保存会」を結成、11月には以前から独学で製作技術の習得に取り組んでいた地元住民の長嶋秀臣氏を講師に、「すすきみみずく製作講習会」がスタートした。以後、作り手の裾野を広げていくため22(2010)年度に7回、23年度からは原則として月1回の製作講習会を開催していくこととしたが、問題は材料となるススキの調達だった。講習会を定期的に開始していくには大量のススキが必要だったが、区内にはススキが自生するような原っぱはなく、南池袋小学校に隣接する空き地でススキの栽培が試みられたが、とてもそれでは足りなかった。そうしたなか、姉妹都市の秩父市が協力してくれることになり、保存会の人たちとともに区職員も参加して同市でのススキ狩りが実現した。こうして材料も揃い、24(2012)年からは南池袋小学校児童を対象とする講習会も開始された。児童たちは講習に先立ち、この「すすきみみずく」の由来とされる雑司が谷の民話を題材とした版画紙芝居「すすきみみずく」の読み聞かせに耳を傾けた。病気の母親の快癒を願って鬼子母神にお百度参りをした「くめ」という名の女の子のもとに、満願の夜、鬼子母神の化身の蝶が現れ、そのお告げに従って作った「すすきみみずく」が飛ぶように売れ、母親の病気も治って幸せに暮らしたという昔話を聴き、その「くめ」という女の子に気持ちを重ねてたくさんの「すすきみみずく」が作られた。なおこの版画紙芝居は昭和53(1978)年、豊島親子読書会(現・池袋親子読書会)に参加していた何組もの親子が手作りで制作したもので、平成22(2010)年には区内3つの親子読書会を束ねる豊島区親子読書連絡会により絵本化され、半世紀近くにわたり語り継がれている。また平成13(2001)年に高田・雑司谷・日出小学校の統合により開校した南池袋小学校の校章はみみずくをデザインしたものであり、16(2004)年に完成した同校新校舎の一画には豊島区にゆかりの深いみみずくやふくろうの資料を展示する「豊島みみずく資料館」が開設されている(※75)。
 こうして雑司が谷では地域の歴史・文化を愛する多くの人々により様々な活動が重ねられていたが、平成20(2008)年の副都心線開通によりその活動の輪はさらに広がった。

※71 「鬼子母神大門欅並木保存会」WEBサイト
豊島区景観計画一部改正について(H300115副都心開発調査特別委員会資料、H301003都市整備委員会資料)

※72 広報としま727号(昭和63年12月15日発行)
H110224豊島区立雑司が谷旧宣教師館の東京都指定について(文教委員会資料)
『雑司が谷旧宣教師館だより』第33・34合併号(2005年1月15日発行)
『雑司が谷旧宣教師館だより』第41号(2007年11月1日発行)
H110509プレスリリース
H131115プレスリリース
H070410プレスリリース
H190513プレスリリース
H150503プレスリリース
H220306プレスリリース
R021028プレスリリース
ひと×街ひすとりぃ 第4回
H170325プレスリリース

※73 雑司ヶ谷霊園MAP 第5版(平成28年7月発行)
雑司ヶ谷霊園万年塀改修計画(H101111副都心開発調査特別委員会資料)
H110611プレスリリース
H120325プレスリリース
H140130プレスリリース

※74 H070811 プレスリリース
H180413プレスリリース
H111012プレスリリース
H151215プレスリリース
H170520プレスリリース
H180507プレスリリース
広報としま1451号(平成22年1月25日発行)
H180528プレスリリース
H260204プレスリリース
豊島区立昭和歴史文化記念館の開館について(R040928子ども文教委員会資料)

※75 H221107プレスリリース
H230928プレスリリース
H251119プレスリリース
豊島区公式WEBサイト「すすきみみずく物語」
H220721プレスリリース
160409プレスリリース

 平成22(2010)年1月、「雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会」のメンバーでもあった南池袋1丁目町会渡邉隆男会長が発起人となり、法明寺はじめ関係寺社や町の世話人が集まって「雑司が谷七福神の会」が発足した。縁起物の七福神を祀る寺社巡りは人気が高かったが区内に七福神はなかったため、副都心線の開通を機に雑司が谷地域に七福神をとの声があがり、21(2009)年春から発起人である渡邉氏を中心に七福神を揃える取り組みが始められた。当時、七福神のうち地域内にあったのは大黒天(鬼子母神堂)、毘沙門天(清立院)、布袋尊(中野ビル)の3神のみで、残りの4神は新たに作り、祀ってくれる寺社を探さねばならなかった。受け容れてくれる寺社や檀家、氏子等との調整に苦労しつつも、その年の暮れに恵比寿(大鳥神社)、吉祥天(寿老人の代替、清土鬼子母神堂)、弁財天(観静院)、福禄寿(仙行寺)を加えて七福神が揃ったため、会の発足に至ったものである。発足後、同会は七福神の回遊路や散策マップ等について20回に及ぶ話し合いを重ね、22(2010)年12月に散策マップを掲載したリーフレット「歴史が薫る雑司が谷七福神」が完成した。さらに御朱印用の色紙も作成し、迎えた23(2011)年正月元旦から雑司が谷案内処を開設し、マップの配布と色紙の配布を開始、「雑司が谷七福神巡り」がスタートした(※76)。
 また平成21(2009)年4月、地元商店街の鬼子母神通り商店睦会で第1回「鬼子母神通りみちくさ市」(以下「みちくさ市」)が開催された。この「みちくさ市」開催のきっかけは、前年の副都心線開通・雑司が谷駅開業記念イベントに出店していた「わめぞ」の活動を見た同商店睦会の建持直樹会長が一緒に何かできないかと声をかけたことだった。「わめぞ」とは早稲田・目白・雑司が谷エリアの古書店主を中心に、出版や編集など本に関わる仕事をしていた10人ほどが集まって平成18(2006)年に発足したグループで、3つの活動エリアそれぞれの頭の1字を取って「わめぞ」と命名、本業の傍ら古本や雑貨を扱う古本雑貨市を開催していた。シャッター通りになりつつあった商店街を何とか活性化したいという思いと誰もが参加できるフリーマーケット型イベントをやりたいと思っていた「わめぞ」の思いが合致し、商店街が一日限りの古本街に変身するイベントが実現したのである。以後、「みちくさ市」は年に4~5回のペースで開催され、既に18(2006)年から鬼子母神境内で開催されていた「手創り市」と相俟って、これらの「市」を目当てに雑司が谷を訪れる人が増えていった(※77)。
 一方、防災まちづくりの取り組みの中からも新たな動きが生まれていた。前述した「雑司が谷地区まちづくり協議会」は雑司が谷墓地周辺地域都市防災不燃化促進事業の開始に伴い昭和57(1982)年に設立された「雑司が谷地区不燃化協議会」を前身とし、平成9(1997)年に名称変更した防災まちづくりの地元協議会である。なお11(1999)年に南池袋2・3丁目、雑司が谷3丁目地区での防災生活圏促進事業の開始に伴い「池袋南地区まちづくりの会」が発足し、以後このふたつの会は活動をともにしていたが、27(2015)年に雑司が谷1・2丁目、南池袋4丁目で居住環境総合整備事業が開始されるのに伴い正式に合体し、現在は「雑司が谷・南池袋まちづくりの会」として活動している。またこのまちづくり協議会を母体として「緑のこみちの会」のほか、「高田小跡地公園づくり検討会」や、高田小学校跡地に整備された雑司が谷公園の活用を図るために設立された「NPO法人雑司が谷ひろばくらぶ」など、様々な活動組織が生まれている。40年にわたるまちづくり活動を通じ、同協議会は防災に限らず、雑司が谷地域のまちづくり全般について様々な提言を区に行なってきた。一方、雑司が谷地域に隣接する文京区目白台の日本女子大学家政学部住居学科(薬袋奈美子研究室)は、21(2009)年度から雑司が谷地域を対象に街並みやそこに暮らす人々の日々の暮らしも含めた「雑司が谷らしさ」という視点からの調査研究を重ね、その成果をまちづくり協議会と共有している。さらに24(2012)年度からは同学科の演習の一環として学生たちが中心となり、フィールドワークの成果とともに雑司が谷地域の魅力を紹介する冊子「ぞうしガヤガヤたんけん」の作成を開始、令和3(2021)年3月時点で13冊まで発行された。また平成24(2012)年5月には、同学科の学生有志グループ「わいわいぞうしがや」が立ち上げられ、豊島区まちづくりバンクの助成を受けて雑司が谷地域での自主活動が開始された。同グループはまちづくり協議会等の会議に参加するほか、「緑のこみちの会」の活動や御会式の万灯づくり、町会等の地域行事にも積極的に参加して地域の人々との交流を重ね、同年10月、雑司が谷案内処で「雑司が谷のいいとこ」写真展を開催した。翌25(2013)年度にも御会式21講社への取材をもとにその魅力を紹介する展示会を開催するほか、26(2014)年度には昭和の風情が残る弦巻通り商友会と連携し、地域の暮らしを支える各店舗の思いを学生ならではの視点で伝えるポスターを作成するなどの活動を展開した(※78)。
 こうして江戸時代から続く祭事から副都心線開通を機に始まった新たな取り組みまで、様々な活動に携わる人々が同じテーブルで雑司が谷地域のまちづくりのあり方を話し合う場として設けられたのが冒頭で述べた「雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会」である。平成26(2014)年、同懇談会はこれらの活動を「雑司が谷がやがやプロジェクト」として束ね、平成22(2010)年3月に設立されたNPO法人としまユネスコ協会の協力を得て、公益財団法人日本ユネスコ協会連盟が推進する「プロジェクト未来遺産」への登録を申請した。この「プロジェクト未来遺産」は100年後の子どもたちに長い歴史と伝統のもとで豊かに培われてきた地域の文化・自然遺産を伝えるための運動で、モデルとなる取り組みを日本ユネスコ協会連盟が選定し「未来遺産」として登録する制度として平成21(2009)年に創設され、25(2013)年度までにすでに全国49の活動が登録されていた。
 平成26(2014)年12月、同年度の応募21件の中から選ばれた3件のうちのひとつとして「雑司が谷がやがやプロジェクト」の登録が決定された。この決定は地域の歴史・文化資源の継承をめざす雑司が谷地域の人々にとって大きな励みとなり、翌27(2015)年2月9日に開催された未来遺産登録証の伝達式には約1,200人が結集した。そして同年7月、「雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会」はそれまで懇談会のメンバーではなかった活動団体等も加えて再編され、改めて「雑司が谷未来遺産推進協議会」として設立された。以後、同推進協議会は区の支援を受け、ホームページの開設や「お散歩マップ」の作成など雑司が谷地域の魅力を発信するとともに、同地域のまちづくりを考えるシンポジウムやフォトコンテストの開催など、地域の様々な活動を横につなぐ役割を担っている(※79)。
 さらに28(2016)年7月25日、雑司ヶ谷鬼子母神堂が国の重要文化財に指定された。区内最古の建造物である鬼子母神堂は本殿の前面に相の間を介して拝殿が接続する権現造の複合建築であり、本殿は寛文4年(1664)に広島藩主浅野光晟公正室の自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、同6年(1666)に落慶、開堂供養が執り行われており、開堂350年の節目を迎えていた。広島から匠を呼び集めて建立されたという本殿は広島地方の寺社建築に類似した装飾が細部に施され、また内部は黒漆喰の壁に金箔押しの天井など、大名家による建築にふさわしい豪奢な佇まいを見せている。一方、元禄13年(1700)に建立された拝殿は近世寺社建築らしい装飾性豊かな礼拝空間が創出され、いずれも建築年代が明らかであるとともに、江戸時代における大名家による社寺造営状況や拝殿組物を略式に改めるなど幕府による建築規制への対応過程をよく示しており、その歴史的な価値の高さが重要文化財として評価されたものである。
 7月の正式決定に先駆け、5月に開かれた文化審議会で重文指定の答申が出されたとの一報を受け、急遽、鬼子母神堂で開かれた報告会には、御会式講社連中はもとより地域の人々が堂内にあふれんばかりに駆けつけ、喜びを分かち合った。またこの朗報を伝える8月1日発行の区広報紙には、地域の宝である鬼子母神堂が国の宝として認められたことに誇りを感じる地域の人々の喜びの声が掲載された。
 この雑司ヶ谷鬼子母神堂の重要文化財指定は、昭和54(1979)年5月21日「豊島長崎の富士塚」(有形民俗文化財)、平成9(1997)年5月29日「自由学園明日館」に継ぐ区内3件目の指定となった。区はこれを機に10月8日、この3つの重要文化財を巡る「豊島区内の国重要文化財巡り健康ウォークラリー」を開催、約1,000名の参加者たちは約 6.8 kmのコースを歩きながら、改めて区の貴重な文化財に触れる機会を得たのである(※80)。
 *文中の「鬼子母神」の「鬼」の文字は一画目のツノのない文字を用いる
雑司が谷鬼子母神堂(重要文化財)
雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会
「雑司が谷未来遺産」登録証伝達式
雑司が谷案内処

※77 H210426プレスリリース
H220318プレスリリース
H270928プレスリリース

※78 「雑司が谷・南池袋まちづくりの会」WEBサイト
日本女子大学・地域連携プロジェクト「ぞうしガヤガヤたんけん」紹介サイト
「ぞうしガヤガヤたんけん発行冊子」一覧サイト
H241026プレスリリース
H251010プレスリリース

※79 雑司が谷がやがやプロジェクト~歴史と文化のまちづくり~(2014.10.29雑司が谷・歴史と文化のまちづくり懇談会)
H261218プレスリリース
H270209プレスリリース
広報としま号外 新春速報「雑司が谷未来遺産決定!」(平成27年1月1日発行)
「豊島区の今とこれから」第3回雑司が谷日本ユネスコ未来遺産登録
「雑司が谷未来遺産」WEBサイト
未来遺産雑司が谷がやがやお散歩マップ
雑司ヶ谷の道でつなぐまちづくり(H300212雑司が谷未来遺産推進協議会シンポジウム)
風情ある雑司ヶ谷における観光と生活の接点を考える(H310122雑司が谷未来遺産推進協議会シンポジウム)
これからの雑司ヶ谷の道案内を考える(R020130雑司が谷未来遺産推進協議会シンポジウム)
H281014プレスリリース

※80 法明寺鬼子母神堂の国重要文化財の指定について(H280525議員協議会資料)
H280725プレスリリース
広報としま1700号(平成28年8月1日発行)
豊島区内の国重要文化財巡り健康ウォークラリーについて(H280909議員協議会資料)
H281008プレスリリース

中心市街地活性化-巣鴨・大塚

 池袋に次ぐ商業集積地である巣鴨・大塚地域においても、他の地域とはまた違った手法によりそれぞれの地域特性を活かしたまちづくりが進められた。
 巣鴨地域は旧中山道の街道口として区内でも最も古くから開け、江戸六地蔵のひとつに数えられる真性寺やとげぬき地蔵で信仰を集める高岩寺、さらに明治期後半に都内下町地域から移転してきた寺が集まる西巣鴨地区など寺町としての歴史を有し、その門前町として巣鴨駅から旧中山道へと人の流れが絶えない商店街が形成されている。一方の大塚地域も戦前には、都内屈指の歓楽街として最盛期には200人を超える芸妓がいたという三業地を抱え、また白木屋デパートや高島屋10銭ストア、寄席や区内第1号の映画館「オヤマ館」などが建ち並び、池袋よりも賑わいのある繁華街だった。戦災により往時の賑わいは失われたが、都電荒川線が走るどこかレトロな薫りが漂う大塚駅の南北両側にそれぞれ特色ある商店街が形成されている。
 だが全国的な商店街の衰退は両地域にとっても他人事ではなく、また「おばあちゃんの原宿」として多くの高齢者で賑わう巣鴨地蔵通りは観光バスで訪れる客がある一方、不足する駐車スペースや集客施設、安全な歩行者空間の整備等が課題になっていた。大塚地域も鉄道路線で南北の人の流れが分断されており、大塚駅の駅舎改修に伴う南北自由通路や駅前広場の整備、老朽化した周辺建物の更新など課題を抱えていた。このため平成16(2004)年7月、区は学識経験者、巣鴨・大塚地域の商店街等地元関係者、商工団体代表及び区職員で構成する「中心市街地活性化基本計画策定委員会」を設置し、翌17(2005)年3月、「巣鴨・大塚地区中心市街地活性化基本計画」を策定した(※81)。
 中心市街地活性化基本計画とは、平成以降、少子高齢化や人口減少、大型商業施設等の郊外化が進むなか、全国の都市に見られた中心市街地の空洞化を是正する目的で平成10(1998)年に制定された中心市街地活性化法(中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律)に基づき、中心市街地の活性化に関する施策を総合的かつ一体的に推進するために各自治体が作成する計画である。法律正式名称にある通り、市街地の整備改善のためのハード事業と商業等の活性化のためのソフト事業の両面からの事業展開が求められ、またこの計画に基づき事業の実施主体となるTMO(タウンマネジメント機構)の一形態として、行政・地元資本・住民等の共同出資による法人の設立が認められた。
 白山通りの拡幅や大塚駅南北自由通路の整備など巣鴨・大塚地域のまちづくりが動き出した機を捉え、区は両地域を中心市街地に位置づけ、この制度を活用してさらなる地域の活性化を図ろうとしたのである。こうして策定された「巣鴨・大塚地区中心市街地活性化基本計画」は、「ぶらり・ゆったり、暮らし楽しむ巣鴨・大塚」の基本コンセプトのもとにエリアを4つに区分し、巣鴨駅周辺地区については「人びとをやさしく迎えるもてなしのまち」、巣鴨地蔵通り地区は「健康といやしにつつまれた新たな門前まち」、西巣鴨地区は「落ちついた住環境と調和した気くばりのまち」、大塚駅周辺地区は「モダンとレトロが共鳴する歴史と人情のまち」というテーマをそれぞれ設定して各地区別方針を示すとともに、市街地整備改善のためのハード事業として29事業、商業活性化のためのソフト事業として38事業を挙げている。こうした点では目白・駒込地域ブランド創出プロジェクトと同様に、「地域」を軸にソフト・ハード両面の事業を分野横断的に展開していくものと言えた。
 そしてこれらの活性化事業を中心的に担う組織として、17(2005)年4月8日、区・地域金融機関・商業者の共同出資による「株式会社豊島にぎわい創出機構」(以下「にぎわい創出機構」)が設立された(図表3-⑧参照)。区は同機構を第3セクターに位置づけ、資本金1,000万円、1株5万円200株のうち100株分を出資、残りの100株については巣鴨信用金庫が20株、巣鴨・大塚両地域の6商店街が6~20株ずつ分け持ち、代表取締役には区の助役が就任した(※82)。
図表3-8 巣鴨・大塚地区中心市街地活性化の事業フレーム
 さらににぎわい創出機構の下部組織として両地域の若手商店主を中心に「事業推進委員会」が組織され、巣鴨・大塚両地区の各所に花やみどりで飾られた様々なアート作品を展示する「グリーンアートフェスタ」の開催や巣鴨・大塚地域の魅力を発信する「すがも・おおつかお散歩マップ」、地域情報誌「ぶらり」の発行など、商業活性化のためのソフト事業が展開された(※83)。
 こうした動きは地元商店街にも波及し、19(2007)年以降、巣鴨駅前商店街振興組合の青年部員たちの発案による眞性寺での野外ライブがスタートするとともに『巣鴨人』ブランドの焼酎やTシャツ等の販売が開始され、また巣鴨地蔵通り商店街でも第1回「すがも朝顔まつり」の開催ほか、公式キャラクター「すがもん」を活用したオリジナルグッズの販売を開始した(※84)。一方、大塚地域でも駅南口の「サンモール大塚商店街振興組合」「大塚駅南口盛和会」「大塚商興会」の3商店街の青年部有志が16(2004)年6月に結成した「南大塚ネットワーク」により『大塚ものがたり』ブランドの清酒やブレンド米等の販売が開始され、また地域の鎮守である天祖神社での「大人の縁日」や「いちょう祭り」の開催、ご当地ソング「大塚ものがたり」のCD化など、新たな商品開発やイベント開催を通じた地域ブランドづくりが進められた(※85)。
 一方、にぎわい創出機構が中心市街地活性化法に基づくTMOと認定され、国からの交付金を得るためには、TMO構想を策定してこれを区が認定し、さらにこの構想に基づいて実施する事業ごとにTMO計画を策定し、経済産業大臣の認定を受ける必要があった。このためにぎわい創出機構は区の支援を受け、17(2005)年度にTMO構想(中小小売商業高度化事業構想)を策定し、翌18(2006)年度にはTMO計画の第1号となる「巣鴨駅前商店街アーケード計画」の策定に着手した。ところが18(2006)年6月に中心市街地活性化法が改正され、区の中心市街地活性化基本計画やTMO構想に基づいて実施する事業が国庫補助の対象外とされた。
 これは同法制定以降、700近い地区で基本計画が策定されていたものの、実際に実施された事業は一時的な商業振興策が中心で、中心市街地の衰退そのものに歯止めがかかっていない状況にあったため、制度の大幅な見直しが行なわれたものである。この改正法では従来の市街地の整備改善と商業等の活性化に加え、中心市街地の都市機能増進を図るための共同住宅の整備(街なか居住)や図書館、病院等の整備(都市福利施設の集積)等が支援対象に追加される一方、制度の実効性を高めるため内閣府に中心市街地活性化本部が設置され、各自治体は改めて基本計画を作成して内閣総理大臣の認定を受けることが法制化された。またまちづくりNPO等も含めた多様な民間主体の参画を促すため、従来のTMOに替わり「中心市街地活性化協議会」を設置することが義務づけられた。これにより旧法に基づいて策定された区の中心市街地活性化基本計画や前年度に策定されたTMO構想、そしてTMOとして区の認定を受けたにぎわい創出機構はいずれも補助金を得るための法的根拠を失うことになったのである。
 こうした事態に陥ったものの、既に動き出している事業や若手商店主たちのネットワークが形成されつつあったこともあり、区は当面、賑わい創出機構を株式会社として継続していくこととし、TMO構想に基づく事業計画の策定を進めていった。18(2006)年度に前述した「巣鴨駅前商店街アーケード計画」を策定したのに続き、19(2007)年度に「都電緑化整備計画」、20(2008)年度には「巣鴨駅前商店街Suica・PASMO事業計画」を策定し、国や都の他の補助金等を活用するなどして順次、事業化を図っていった。
 この18~20(2006~2008)年度当時、区は環境政策を重要政策のひとつに位置づけ、環境都市づくりを進めていた。こうした区の動きに呼応し、平成18(2006)年4月、にぎわい創出機構はペットボトルの再生繊維100%を材料とする「しあわせの赤い風呂敷」の製作・販売を開始しており(※86)、TMO構想に基づく「巣鴨駅前商店街アーケード計画」や「都電緑化整備計画」も同様の視点から計画されたものであった。
 特に「環境」への取り組みに力を入れていたのが巣鴨駅前商店街振興組合で、その第1弾として平成20(2008)年1月、同振興組合は既存アーケードの屋根の上にソーラーパネル188枚を設置する工事に着手し、4月に全長約270mのソーラーアーケードが完成した。稼働後の4月~7月の4か月実績で、約54%強の節電効果と2,198 kg-CO2/kWhの二酸化炭素削減効果を生み出したこの事業は、20(2008)年度の地球温暖化防止活動環境大臣表彰を受賞している(※87)。翌21(2009)年3月、同商店街は巣鴨地域3商店街27店舗でSuica・PASMOカードと連携した電子決済を導入し、これに併せて加盟店での支払金額に応じてポイントを付与する「すがもさくらポイントカード事業」を開始した。このポイント制度を活用し、同年10月にエコ活動のアイデアを募集、応募者にさくらポイントをプレゼントする3R運動を実施し、11月には寄せられたアイデアを「巣鴨ムダ減らし宣言」「巣鴨緑化宣言」「巣鴨リサイクル宣言」の3つのエコ宣言にまとめ、「環境にやさしいまち巣鴨」をアピールした。また21(2009)年6月には巣鴨地蔵通り商店街でも区内初となるLED装飾街路灯が設置され、巣鴨駅前から地蔵通りへと省エネの取り組みは広がっていった(※88)。
 一方、時を同じくして大塚地域でも都電荒川線沿線の緑化事業がスタートした。ごみの不法投棄や違法駐輪等により景観が損なわれていた都電荒川線大塚-向原間沿線に20 数年前に植えられた約 100 本のバラが残っていたことから、バラで沿線を美しく変えていこうと「南大塚ネットワーク」の声掛けに集まった地元住民・商店街等で組織する「南大塚都電沿線協議会」が20(2008)年12月に発足し、翌21(2009)年2月から植栽活動が開始された。沿線を6つのエリアに分け、それぞれのエリアごとに異なるテーマで様々な品種のバラが植えられていき、23(2011)年には420品種にも増えた沿線のバラを紹介する「大塚ROSEマップ」を作成、24(2012)年からはバラが見頃の春と秋の年2回、「大塚バラ祭り」が開催され、「都電とバラ」の風景は大塚地域の新たな魅力スポットになっていった。地域住民ボランティアによるバラの植栽から水やりや草むしり、周辺清掃まで含めた沿線の維持管理活動は大都市部における花のまちづくりの好事例として、22(2010)年度全国花のまちづくりコンクール「花のまちづくり優秀賞」を受賞、5年後の27(2015)年度には同コンクールの最高賞である「国土交通大臣賞」とともに「緑の都市賞奨励賞」のW受賞を果たしている(※89)。
 また平成21(2009)年5月には、「大塚駅南口盛和会」「大塚商興会」「大塚銀座通り商店街」の3商店街の主催により「おおつか音楽祭2009」が初開催された。音楽のデジタル化が進むなか、生の音楽を通して人と人とが直につながり合う場を作ろうと企画されたイベントで、大塚駅周辺の広場やまちかど、南大塚ホール等を会場に毎年開催され、22(2010)年には「東京商店街グランプリ」の準グランプリを受賞、その後も大塚地域の新たなイベントして定着していった。なお当初は大塚駅周辺に多くあったライブハウスを会場として活用し、そこでは有料チケット制がとられていたが、現在はすべて無料で楽しめるイベントとなっている(※90)。
 こうして中心市街地活性化法に基づく国庫補助対象外になって以降もTMO構想に基づく様々な事業が展開されたが、その一方で条件が整わず休止となった事業や未着手の事業も少なくなかった。また事業実施にあたっては国や都からの助成金を可能な限り活用していたが、国や都からの交付金だけでは不足する経費や、助成対象外の事業には借入金や区からの補助で賄わざるをえなかった。さらに区が出資しているとは言え、独立した事業体であるにぎわい創出機構が本来支払うべき法人税等の赤字分を区が補てんすることは適当でないとの監査からの指摘もあり、区としてもにぎわい創出機構のあり方を見直さざるをえなくなった。そのため21(2009)年度に入って解散も含めた見直しが検討され、株主及び関係者への影響を最大限抑制する策として巣鴨駅前商店街振興組合がにぎわい創出機構の株式をすべて買い取り、株式譲渡により同振興組合の100%子会社とすることが8月18日の取締役会で合意された。これは前述した21(2009)年3月に開始された「すがもさくらポイントカード事業」が国と都からの助成を受けており、最低でも5年間の事業継続が求められる一方、にぎわい創出機構がその助成金の受け皿となり、事業実施のために購入したカード端末機やシフトウエア等の資産は同機構の所有となっていた。機構を解散した場合はその助成金や機器に対する多額の税負担が生じ、解散しなければ減価償却により税負担は軽くなるが、株式が額面割れして株主に損失が生じる恐れがあった。こうしたことから事業の継続を望む巣鴨駅前商店街振興組合に株式を一括譲渡する方策が採られたのである。取締役会での合意に基づき、10月1日に株式譲渡の契約が締結され、12月14日、にぎわい創出機構に替わり新会社「株式会社すがもびと」が設立登記された(※91)。これに伴い、中心市街地活性化事業も20(2008)年度をもって事業廃止となったが、既に実施されている各事業については、「商工団体等振興助成事業」の枠組みのなかで引き続き支援が継続された。
 以上、中心市街地活性化事業として巣鴨・大塚地域で展開された主に商店街を中心とする地域活性化・ブランドづくりの取り組み経緯をたどってきた。これら取り組みと併行し、同事業立ち上げのきっかけとなった白山通り拡幅事業や大塚駅南北自由通路の整備など、巣鴨・大塚地域のハード面でのまちづくりについて、平成10~20年代の動きを概略する。
グリーンアートフェスタ
地域情報誌「ぶらり」
巣鴨駅前商店街ソーラーアーケード完成
巣鴨地蔵通り商店街装飾街路灯設置セレモニー
第1回「大塚バラ祭り」
おおつか音楽祭

巣鴨地域のまちづくり動向

 白山通り(放射9号線・国道17号線)の区内明治通りから巣鴨3丁目のとげ抜き地蔵入口までの延長1,350mの拡幅工事は、東京都が施行者となり昭和63(1988)年から3期3区間に分けて進められている。第1期(明治通り-折戸通り400m)は平成18(2006)年3月に、第2期(折戸通り-中央卸売市場手前485m)は平成29(2017)年3月にそれぞれ事業が完了し、残る第3期(中央卸売市場手前-とげ抜き地蔵入口)のみ現在も整備工事が進行中である。
 この白山通り拡幅事業を契機として、巣鴨地域では様々なまちづくり活動が展開された。そのひとつが第2期工事の用地買収が進められていた平成11(1999)年当時、沿道住民らにより発足された「白山通りの拡幅を考える会」である。同会は通称「歩道を考える会」と言い、その名の通り快適で安全な歩行者空間をめざして住民主体の検討が重ねられた。そして同会を中心に既存の街路樹(プラタナス)を活かした歩道整備の要望が出され、第2期工事区間では都内の国道では初となる歩道中央の植樹帯により歩行者と自転車の通行帯を分離した整備が行われた。また21(2009)年10月には地元朝日小学校児童が制作した記念のモニュメントが植樹帯に設置され、工事完了後も地域住民による草花の植栽や周辺清掃活動などが行なわれている(※92)。
 一方、平成11(1999)年3月に事業が開始された第3期工事では、中央卸売市場手前からとげ抜き地蔵入口までの工事区間に止まらず、巣鴨駅前から地蔵通り入口までの歩行空間の整備や拡幅事業により影響を受ける巣鴨地蔵通りの再整備など、より広範囲なまちづくりが展開された。
 このうち巣鴨駅前から地蔵通り入口までの区間については既に拡幅工事が完了していたが、平成4(1992)年に巣鴨駅前商店街振興組合により商店街歩道の景観舗装と当時としては近代的なアーケードを設置するなど先進的な取り組みが行なわれていたことから、国の「歩行者を主体とする道路空間の活用」のモデル地区に指定され、14(2002)年8月、国土交通省の主導により「国道17号巣鴨地区歩行空間整備検討会」が設置された。地元商店街・町会、障害者団体連合会、交通管理者である警察、鉄道施行者の都交通局とJR東日本、拡幅工事施行者の都建設局(第四建設事務所)、国土交通省東京国道事務所及び豊島区で構成されるこの整備検討会での検討をもとに、都営三田線巣鴨駅出口のエスカレーター・エレベーター設置工事(14~15年度)と巣鴨駅前から地蔵通り入口までの歩行空間整備(16~17年度)が進められた(※93)。なお前述した中心市街地活性化事業として平成20(2008)年に完成した巣鴨駅前商店街のソーラーアーケードは、この歩行者空間整備により歩道が拡幅されたのに伴い、既存アーケードの改修が必要になったことから計画されたものである。
 また全国から来街者を迎え、観光バスの駐車スペースや休憩施設、安全な歩行者空間の整備等が課題になっていた巣鴨地蔵通り商店街においても、平成11(1999)年に第3期拡幅工事が開始される以前から、商店会の若手を中心に有識者を交えたまちづくり勉強会が開催されていた。こうした取り組みが既に積み重ねられていたことから、拡幅工事を次の時代に向けて巣鴨地蔵通りをリニューアルしていく好機と捉え、11(1999)年2月、地元商店街を中心に「巣鴨地区街づくり協議会」が発足した。同協議会は白山通りの拡幅に伴う道路整備と地蔵通り周辺のまちづくりとの一体的な実現を求め、14(2002)年9月に区議会へ、翌10月には都議会へそれぞれ請願を提出した。これらの請願の主旨は、①白山通りから旧中山道への分岐部分(地蔵通り入口)の道路環境整備、②白山通り・地蔵通り側の歩道拡幅と駐停車対策、③拡幅買収済み用地の暫定利用及び修景対策、④高岩寺裏公衆トイレの再整備、⑤地蔵通り及び周辺区道の再整備の5項目にまとめられていた。またそれぞれの項目ごとに、地蔵通り入口の既設歩道橋の撤去や都営三田線地蔵通り方面階段へのエスカレーター設置等のバリアフリー対策、観光バス用駐車帯や公衆トイレの代替機能の確保、広場・インフォメーションセンターの整備など参詣・利用客の利便性向上、歩行者に配慮した道路舗装や照明の設置等の参詣道に相応しい景観づくりなど、より多岐にわたる要望が盛り込まれていた(※94)。
 一方、巣鴨駅に近接する巣鴨地蔵通り周辺は交通や生活利便性が高いことから、バブル期以降、マンション建設計画が次々と浮上していた。このまま民間開発に委ねているだけでは小規模商店が連なる街並みが分断され、庶民的な商店街としての魅力が失われることを懸念する声が聞かれるようになった。こうした状況に何とか歯止めをかけようと、巣鴨地蔵通り商店街振興組合を構成する3つの商店会のうち四丁目サービス会の周辺住民等により「巣鴨地蔵通り四丁目地区計画を進める会」(以下「進める会」)が結成された。同会は16(2004)年3月から専門家等の助言を受けながら地区計画の勉強会やその導入について検討を重ね、翌17(2005)年4月、地区計画のたたき台となる素案を区に提出し、同商店会沿道地区の地区計画に関する都市計画決定を申し出た(※95)。
 地区計画は都市計画法や建築基準法に定められる全国一律の規制とは別に、各地域の実情に合わせて開発行為や建築行為等を規制する地域独自のルールを定めるものであるが、12(2000)年の都市計画法改正時に地域住民による「地区計画等に関する申出制度」が創設された。また区もこの法改正を受け、15(2003)年4月施行の街づくり推進条例に申出制度に係る手続き等を規定した。進める会による申出はこの制度を活用したものであり、専門家等の協力を得ながらも、地区内権利者の同意取得から地区計画の素案づくりまで様々な課題に地域住民が主体的に取り組んだ。区に提出されたこの素案には、建物高さを25m以下(概ね8階程度)、敷地面積の最低限度を65㎡に制限するほか、賑わいと魅力ある商店街を形成するため、地蔵通りに面する建物1階部分には店舗・飲食店・事務所などを誘導する一方、パチンコ店・場外車券売場・倉庫業などを制限する建物用途に関する独自ルールが盛り込まれた。進める会からの申出を受け、区は素案に沿った地区計画原案を作成し、公告・縦覧等の手続きを経て都市計画審議会に付議、17(2005)年9月、申出制度を活用した区内初の地区計画として「巣鴨地蔵通り四丁目地区地区計画」が都市計画決定された(※96)。
 またこの地区計画決定に続き、四丁目地区以外の門前仲見世会、中央名店会においても18(2006)年から19(2007)年にかけて、地区計画のような法的拘束力はなく10年間の期間限定の紳士協定ではあったが、建物高さ制限(20m、6階以下)や四丁目地区計画同様の用途制限を申し合わせる「街づくり協定」が定められた(※97)。
 こうして地蔵通り沿道の景観保全に向けた動きが活発化するなか、平成20(2008)年3月、巣鴨地区街づくり協議会は「放射9 号線(国道 17 号線)拡幅に伴う道路整備と街づくりに関する要望」を区長に提出、翌21(2009)年5月には「巣鴨地蔵通り周辺地域の総合的なまちづくりの促進に関する請願」を区議会に提出した。これらの要望、請願は14(2002)年提出時の請願内容を踏襲しつつも、その後さらに検討を加え、トイレの修築など国道拡幅による直接的な影響への対策と、より長期的な巣鴨の将来像を描くことを切り分けた街づくり構想案を取りまとめ、特に巣鴨地蔵通り周辺地区の総合的なまちづくり計画の策定と巣鴨4丁目の旧巣鴨休日診療所(保健福祉部分庁舎)等を活用した拠点施設の整備を求めるものであった(※98)。
 6年前の14(2002)年に区議会に提出された請願は地元での協議が十分に整っていない等の理由で継続審査の取扱いとなったが(都議会は「趣旨にそうよう努力されたい」との意見付で採択)、改めて提出されたこの請願は区議会の全会一致で採択された。これを受け、区は巣鴨地区街づくり協議会と協働し、21(2009)年度に巣鴨地区街づくり計画策定に向けた来街者アンケートなど基礎調査を実施した。翌22(2010)年度、同街づくり協議会ではまちづくり計画案の合意形成と実際にまちづくりを担うNPO法人の設立に向けた検討が並行して行なわれ、NPO法人の設立は具体化までには至らなかったが、まちづくり計画案については概ね合意形成が図られ、その後の巣鴨地区まちづくりに活かされていった。また23(2011)年度以降は個別的な課題の解決に向けた検討に移行し、巣鴨地区街づくり協議会の若手メンバーを中心に「巣鴨ビジョン研究会」が立ち上げられた。以後、同研究会メンバーと都第四建設事務所や区職員との間で積極的な意見交換が重ねられ、そうした中でまとめられた「巣鴨地蔵通り周辺整備構想案」に基づき地蔵通り入口の再整備等が具体化され、26~28(2014~2016)年度には巣鴨地蔵通り高岩寺先から折戸通りまでの歩道の拡幅・カラー化等バリアフリー改良工事が実施された。さらに地蔵通りの良好な景観形成と安全で快適な通行空間の確保に向け、電線地中化が新たな検討テーマに加わった。27(2015)年12月、「巣鴨地区無電柱化プロジェクト推進協議会」が設置され、30(2018)年度から巣鴨地蔵通りをモデル地区とする幅員の狭い道路における新たな低コスト手法による無電柱化工事が進められている(※99)。
白山通り拡幅(歩行者・自転車通行帯分離)
巣鴨地蔵通り無電柱化

大塚地域のまちづくり動向

 昭和62(1987)年に国鉄が民営化され、長期債務整理等を担うために設立された国鉄清算事業団による旧国鉄用地の処分や跡地開発の動きが各地で広がるなか、駅南側に約5,300㎡の清算事業団用地を抱える大塚駅周辺でも地域のまちづくりについて街ぐるみで考えていこうと、平成5(1993)年5月18日、駅南北の9商店街と18町会が集まって「大塚駅周辺を考える会」が発足した。同会は翌6(1994)年6月、駅の南北を結ぶ自由通路の設置を含む大塚駅舎の早期改築や駅前広場、駐輪場等の整備、さらに地元地域の発展に寄与する旧国鉄貨物ヤード跡地(清算事業団用地)開発の誘導等について関係機関に意見書の提出を求める請願を区議会に提出し、全会一致で採択された。一方、同年3月にこの清算事業団用地が民間不動産会社に売却されたのを機に、区も関係機関との調整を図りつつ、助役をトップとする庁内横断組織「街づくり事業推進委員会」の下に「大塚駅周辺街づくり検討小委員会」を設置し、同年11月、その検討報告をもとに「大塚駅周辺整備方針」を策定した。この整備方針では、①自由通路の設置と南北駅前広場の一体的整備、②駅周辺の駐輪及び駐車対策、③駅周辺街路と池袋地区・巣鴨地区へのアクセス道路の整備、④駅舎の改築・改造(空蝉橋側改札口新設)、⑤民間開発のよる施設建築物(旧貨物ヤード)の5項目が課題として挙げられている(※100)。
 これら課題のうち旧貨物ヤード跡地については、その一部が(株)互助センター友の会の集会施設として暫定活用されていたが、平成7(1995)年夏にホテル(現・ホテルベルクラシック東京、1998年6月開業)の建設計画が明らかにされた。これにより大塚駅周辺地域の将来の発展を見据えた総合的なまちづくり計画の必要性はさらに高まり、同年9月、区は大塚駅周辺を考える会・区・街づくり公社の三者で構成する「大塚駅周辺街づくりに関する協議会」を発足させ、続いて翌10月には東京都・JR東日本・区・街づくり公社で構成する「大塚駅周辺整備に関する調整会議」及び学識経験者による「アドバイザー会議」を設置し、地元意見を反映させながら整備計画の検討を重ね、8(1996)年3月に「大塚駅周辺整備マスタープラン」を策定した。さらにこのマスタープランの中で短期的施策の第一に挙げた「南北自由通路」についての整備手法等を検討し、翌9(1997)年3月に「大塚駅自由通路新設基本計画」を策定した(※101)。
 鉄道路線による人の流れの分断が地域の発展の妨げになっていたことから、この「南北自由通路」は地元からも特に強く要望されていたものであったが、その新設には駅舎の改築が前提になる。だが区による計画づくりが進められる一方、経営合理化を進めるJRの駅舎改築に向けた動きは鈍く、平成不況の長期化も相俟って、その後しばらくの間、大塚駅周辺地域の整備計画にはかばかしい進捗は見られなかった。このため12(2000)年2月、大塚駅周辺を考える会は改めて「JR大塚駅及びその周辺地域の整備に関する請願」を、さらに翌13(2001)年6月には「JR大塚駅及び周辺地域の整備に関して、東日本旅客鉄道株式会社、並びに、国及び東京都をはじめ各関係行政機関へその整備実現への督促行動を豊島区議会へ要請する請願」を区議会に提出した。これらの請願は遅々として進まない駅周辺整備計画を何とか実現してほしいという地元住民らの切実な願いが込められたものであり、いずれも全会一致で採択され、区議会は請願の主旨を踏まえ、国土交通大臣及び都知事宛意見書とJR東日本代表取締役社長宛て要望書をそれぞれ送付した(※102)。
 こうしたなか、平成13(2001)年11月、JR東日本から「大塚駅南北自由通路新設計画(案)」が提示された。だがこの案は、前年に同社が示した大塚駅のエスカレーター設置計画が北口からの平面アプローチしか確保されておらず、南口からも車椅子で利用できるよう区や地域から強く求められたことを受け、南北双方からのアプローチを可能にするには現状の駅構造では困難であるため、あくまでも検討案のひとつとして示したものにすぎなかった。この時点ではJRとして積極的に自由通路の整備を進めていこうとの意思はなく、自由通路は区の施設であり区の負担で整備すべきというのがJR側のスタンスだった(※103)。
 このため区は14(2002)年5月、内閣総理大臣を本部長とする都市再生本部に「全国都市再生のための緊急措置」に基づく都市再生案として、南北自由通路の整備を提出し、7月には区長と大塚駅周辺を考える会会長らが都市再生本部を訪問し、国の支援を要請した。この区が提出した都市再生案が国の担当者の目にとまり、大塚駅をモデルに都市再生交通拠点整備事業(国庫補助事業)を実施する希望があるかとの話が都を介して持ち込まれた。これを受けて区は8月に概算要望書を提出、11月には15(2003)年度分の本要望書を提出し、自由通路の実現に向けた道が開かれたのである(※104)。
 以後、区はJR東日本と協議を重ね、同社を共同事業者として南北自由通路の整備と大塚駅の改良(バリアフリー化)とを一体的に進めていくことで合意、15(2003)年6月に「大塚駅南北自由通路整備及び駅改良に関する基本協定」を、17(2005)年3月には工事施行協定を締結した。これにより幅員14m延長29mの南北自由通路の整備工事については都市再生交通拠点整備事業(2008年度以降「都市交通システム整備事業」に名称変更)として工事経費33億5千万円(自由通路及び駅舎地下の支障物撤去に伴う委託工事契約変更後37億4千万円)を区が負担し、一方、エレベーター1基・エスカレーター2基の設置及びコンコース等の駅改良工事経費9億7千万円(同10億7千万円)はJR東日本が負担することになった。なお区の負担分のうち3分の1の11億円(同11億9千万円)には国庫補助が充てられ、残り22億5千万円(同25億5千万円)についても全額、都の財政調整交付金が充てられることになったため、実質的には区の負担なしで整備事業が行なわれることになった(※105)。
 そして15・16(2003・2004)年度にそれぞれ概略設計、詳細設計を実施し、17(2005)年度から整備工事に着手、21(2009)年10月に駅の南北をつなぐ自由通路が開通した。10月17日、開通を記念して巣鴨駅南北の駅前広場で「大商人祭り」が盛大に開催され、地域をあげて待望の自由通路誕生を祝い合った。そして翌22(2010)年3月、5年の歳月を要した南北自由通路と駅改良工事が完了した(※106)。
 この工事に並行し、平成14(2002)年9月、区は前述した「大塚駅周辺整備に関する調整会議」を改めて設置し、駅前広場や駐輪場、周辺街路の再編等について意見調整を図っていった。また大塚駅周辺を考える会からも16(2004)年5月、20(2008)年6月の2度にわたり、駅周辺整備に関する残された諸課題の計画的な実現を求める請願が提出された。こうした関係機関との意見調整や地元要望を踏まえつつ、区は18(2006)年度以降、大塚駅周辺の全体的な整備計画をはじめ、駅前広場や駐輪場等の個別施設ごとの基本設計・実施設計を順次進めていった。このうち大塚駅南口については、バス停やタクシー乗場を東側に集約することにより駅前の通過交通を排除して歩行者優先の駅前広場空間を創出し、その広場地下に自転車駐車場を整備する計画だった。またJRも駅舎改築に合わせ、南口側に駅ビルの建設を計画していた(※107)。
 こうして区は南北自由通路整備に続く事業として社会資本整備総合交付金(都市交通システム整備事業)を活用し、24(2012)年度から周辺整備工事に着手した。まずは駅南口のバス停やタクシー乗場を都電敷地外側に移す街路整備工事から取り掛かり、それにより生み出された駅前広場空間の地下に駐輪場を整備する工事が進められた。29(2017)年3月、延べ床面積2,087㎡(地上入口部分含む)、収容台数700台の大塚駅南口自転車駐車場が完成したのに続き、5月には4本の桜の木と周囲にバラが植栽された南口広場が完成した。また、JR東日本による駅前ビル「アトレヴィ大塚」も既に25(2013)年9月に開業され、大塚駅の玄関口は大きく様変わりした(※108)。
 着工から足掛け6年に及ぶ工事ではあったが、大規模駐輪場の整備により、池袋と並んで都内ワースト1位2位を争っていた大塚駅前の放置自転車問題は解消された。また駅前広場は公募により「トランパル大塚」と命名されたが、この「トランパル(TRAMパル)」とは都電(train)のT、バラ(rose)のR、アートのA、ミュージックのMの頭文字と仲間を意味する「パル」を組み合わせたもので、大塚の魅力をアピールするとともに人々が楽しく集いあう「広場」にしたいとの思いが込められている。その名の通り、東京大塚阿波おどりや大塚バラ祭り、おおつか音楽祭など大塚を代表する祭りのほか様々なイベント会場として活用されており、また毎朝のラジオ体操会やボランティアによる清掃・植栽活動など地域交流の場にもなっており、さらに令和元(2019)年7月には地域住民らにより一般社団法人「みんなのトランパル大塚」が設立され、広場の自主的な管理運営が行なわれている。
大塚駅南北自由通路開通
大塚駅南口駅前広場・大塚駅南自転車駐車場完成

※100 JR大塚駅及びその周辺地域の整備に関する請願(平成6年6月20日)
JR大塚駅前国鉄清算事業団用地の入札結果について(H060228区民建設委員会資料)
大塚駅周辺整備方針報告書(H061014副都心開発調査特別委員会資料)

※101 大塚駅前ホールについて(H070725副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅前のホテル建設計画について(H071013副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅前のホテル建築工事について(H080515副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅周辺整備マスタープラン策定調査について(H080731区民建設委員会資料)
大塚駅周辺整備について(H080913副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅自由通路新設基本計画策定調査報告書(H090917副都心開発調査特別委員会資料)

※102 JR大塚駅及びその周辺地域の整備に関する請願(平成12年2月8日)
JR大塚駅及び周辺地域の整備に関して、東日本旅客鉄道株式会社、並びに、国及び東京都をはじめ各関係行政機関へその整備実現への督促行動を豊島区議会へ要請する請願(平成13年6月15日)
大塚駅周辺整備について(H120225区民建設委員会資料)
大塚駅周辺整備について(H130705清掃都市整備委員会資料)

※103 大塚駅南北自由通路新設計画(案)(H131214副都心開発調査特別委員会資料)
JR大塚駅のエスカレーター設置について(H120215副都心開発調査特別委員会資料)

※104 大塚駅周辺整備について(H141114副都心開発調査特別委員会資料)
H141024プレスリリース

※105 大塚駅周辺整備について(H141213副都心開発調査特別委員会資料)
平成15年度予算案重点施策(3p)
大塚駅南北自由通路整備及び駅改良に伴う工事概要(H170224総務委員会資料)
大塚駅南北自由通路整備事業について(H181003都市整備委員会資料)
大塚駅南北自由通路整備及び駅改良に伴う工事委託契約の一部変更について(H200703総務委員会資料)

※106 大塚駅南北自由通路整備及び駅改良に伴う概略設計報告書〈概要版〉(H160415副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅南北自由通路整備及び駅改良工事の状況について(H200616副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅南北自由通路整備及び駅改良工事について(H210930・H220226都市整備委員会資料)
H211017プレスリリース

※107 平成18年度予算案重点施策(17p)
大塚駅周辺整備事業について(H221004都市整備委員会資料)
大塚駅周辺整備事業について(H230715副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅周辺整備事業について(H231115副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅周辺整備のパブリックコメント実施状況(H240413副都心開発調査特別委員会資料)
大塚駅ビル計画の概要(H220714都市整備委員会資料)

※108 大塚駅周辺整備工事請負契約について(H241206総務委員会資料)
大塚駅南自転車駐車場(仮称)整備工事請負契約について(H250927・H270219総務委員会資料)
大塚駅周辺整備事業について(H270930都市整備委員会資料)
大塚駅南口広場整備工事について(H280701総務委員会資料)
豊島区立自転車等駐車場条例の一部を改正する条例について【大塚駅南・池袋駅西第二自転車駐車場】(H281205都市整備委員会資料)
H250821プレスリリース