様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
第4回 小森香子さん (詩人)
〈秘密のオアシス〉で温かい物語を語り継ぐ
詩人・小森香子さんによる「『赤い鳥』を語り継ぐ、おばあちゃんのおはなし会」は平成15(2003)年に始まり、令和2(2020)年11月に200回を迎えました。おはなし会が行われる雑司が谷旧宣教師館(※1)は、アメリカ人宣教師J.M.マッケーレブ(※2)が明治末期に建てた居宅。雑司が谷に生まれ育った小森さんにとっては、激動の半生を経たのち、運命的に出会ったよりどころでもあります。幼い頃に出会った文学、戦争体験、愛する家族や恩師の思い出――安住の地を見つけるまでのお話に、耳を傾けてみましょう。
1 童話の世界に胸を躍らせた幼少期
雑司が谷では「おはなし会のおばあちゃん」としても親しまれている詩人の小森香子さん。生まれ育った雑司が谷は、現在の小森さんの軸となる感性を養った土地である。
文学への扉を開いてくれたのは母親だった。『赤毛のアン』の翻訳者として知られる村岡花子が通った女学校で進歩的な教育を受け、小森さんに大きな影響を与えた。
「母は東洋英和女学校の卒業生で、村岡花子さんの後輩。親しくしてもらったそうです。大変、自由な考え方の母親で、文学好きでした。若い頃には小説なんかも書いていたようですが『女がものを書くなんて』という雰囲気でしたので、おそらく夢は伏せて、子どもを育てていったんだと思います」
そんな母親のもと、小森さんは姉、兄たちと一緒に本に囲まれた幼少期を過ごす。自宅にあった立派な本棚は、その後の小森さんを育んだ原風景だ。鴨居の高さまである作りつけのその本棚には、先端的な出版物だった文学全集や少女雑誌などがびっしりと詰まっていた。当時のときめきは、今でもありありと思い出せる。
「やっと平仮名が読めるようになった頃から、少女雑誌とかを片っ端から読んでました。竹久夢二だとか、素晴らしい人たちの挿絵に憧れて、仮名から何から自分で読みたくてしょうがなくて……。だから、教わらなくても自然と本は読めるようになりましたね。
小川未明さんの本もその中にありました。当時、小川未明さんの分厚い童話全集が出始めたところで、布張りの素敵な本でしたよ。赤い南天の実が表紙に描かれててね。母は、子守歌の代わりにそういった童話をよく読み聞かせてくれました。小川さんの作品だったら『赤い蝋燭と人魚』が好きでしたね。ふたりの姉――慶応の看護婦さんと小学校の先生で、〈働く女性〉でした――も兄もみな母親の影響が大きく、本が好きでした」
関連映像:昭和60年8月24日撮影 雑司が谷旧宣教師館改修工事映像
関連資料:『雑司が谷宣教師館だより』第2号(1996年10月1日発行)、第3号(1997年3月20日発行)、第5号(1997年10月10日発行)、第20号(2001年6月1日発行)、第41(100周年記念)号(2007年11月1日発行)、「豊島区史 通史編二」第6編第5章第7節(キリスト教)
大正7(1918)年に創刊された『赤い鳥』(※3)は、学校教育などで浸透した封建的な教訓話に対して、子どもの感性に響く新しい創作を目指した児童雑誌である。小森さんが生まれた昭和初期には、のちに小森さんが交流する坪田譲治や、新見南吉などの新人作家が活躍していた。小川未明は『赤い鳥』の代表的な作家であり、その娘が小森さんの姉と同級生だったこともあって、とりわけ親しんだそうだ。
そんな家庭で過ごした小森さんだが、家の外へ出ると「軍国少女」でもあった。今では文学ファンゆかりの場所でもある雑司ケ谷霊園(※4)は戦争ごっこの舞台であり、「悪いことばっかりして」いたと、いたずらっぽい笑みを見せる。
「お兄ちゃんの後にくっついて暴れまわってましたね。5歳ぐらいから棒を振り回して戦争ごっこ。お兄ちゃんに『そこから飛び降りたら2階級特進!』なんて言われて、漱石さんの墓の横あたりによじ登ったりして、兵隊さんのまねをしてました。
そして夜になると、母が美しい童話を読んで寝かせてくれる。兄にさせられたことは、母には黙ってました(笑)」
関連資料:『雑司が谷宣教師館だより』第31号(2004年3月1日発行)