様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
第2回 小池陸子さん (「としま案内人雑司ヶ谷」代表)
歴史と文化のまち・雑司が谷とともに
平成26(2014)年12月、地域ぐるみで取り組む歴史と文化のまちづくり活動(雑司が谷がやがやプロジェクト(※1))が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産(※2)」に登録され、同28(2016)年7月には雑司ヶ谷鬼子母神堂が重要文化財に指定されるなど、歴史と文化の息づくまち雑司が谷。このまちに住んで半世紀。郷土史調査にはじまり、雑司が谷の歴史と文化を伝えていく担い手として、幅広い活動を続ける小池陸子さんの登場です。
(*鬼子母神の「鬼」の字は一画目の点(ツノ)がない文字を用います)
1 生い立ちから結婚・子育てを経て専業主婦が社会参加
小池陸子さんは、昭和16(1941)年、外務省の役人だった父親の仕事の関係で、中国の青島(チンタオ)で誕生した。陸子と書いて「みちこ」と読む。祖父が「大陸で生まれた赤ちゃんが、興亜、興亜と泣く声が聞こえる」と、大陸の陸の字をとって「陸子」と命名したという。翌17(1942)年に一家で帰国したため、小池さん自身に中国の記憶はないというが、誰からも信頼される大らかな人柄はその名前に由来しているのかもしれない。
やがて東京市中に戦禍が広がる中、帰国当初住んでいた麻布から豊島区椎名町6丁目(現在の南長崎4丁目)に転居、さらに2年間ほど母方の実家である広島県尾道に疎開し、そこで終戦を迎える。帰省後、椎名町小学校に入学。「小学生の頃は虚弱児童だったんですよ。生まれてすぐに大病をしたらしく、ペニシリンで生き返ったので、冬場、ちょっとくしゃみをしたら学校を休む、というふうだった」と振り返るが、「本当はそこまで虚弱じゃなかったんでしょうけど、甘えてたんでしょうね」と笑う。その言葉通り、その後、中・高等科の6年間無欠席を通した。得意科目は国語や歴史で、「日本史と古文の先生にはすごくかわいがられた」という。後に郷土史や古文書に関わる素地はこの頃すでに芽生えていたことが窺える。
関連資料:H261218プレスリリース
詳細:「雑司が谷未来遺産」ホームページ
詳細:公益社団法人日本ユネスコ協会連盟ホームページ
昭和42年4月24日(42424)、数字合わせが好きだったという小池俊夫さんとお見合い結婚。女性が結婚に望む条件として「家付き・カー付き・ババ抜き」と言われていた当時、「私は家付き・カー付き・ジジあり、ババありでしたけど、小池の両親がとってもいい方たちだったので、特に困ることもなく、あんまりお嫁さんらしいことをせずに、楽しく過ごさせてもらいました」という。以来、雑司ヶ谷1丁目に住んで半世紀が経つ。
2人の子どもにも恵まれ、家事・育児に忙しい日々を送っていたが、子どもから手が離れた昭和60年、広報紙の記事がふと目にとまった。それは前年6月に開館した区立郷土資料館(※3)の歴史・生活資料調査員(※4)の募集記事だった。子育てが一段落して「世の中の、外のことを見てみよう」と考えだした時と重なり、小池さんのうちに眠っていた好奇心が目を覚ます。それは、専業主婦の社会参加の第一歩だった。
この調査は、豊島区内を5地区(旧高田・雑司が谷、旧長崎町、旧巣鴨町、旧西巣鴨町、旧池袋)に分け、各年1地区、計5年間かけて行われたが、調査員の仕事は、前もってチラシを配っておいた家に訪問し、戦中・戦後の地域の様子や生活について聞き取ることだった。「野次馬根性で参加した」と言うものの、見ず知らずの家への訪問に少なからぬ不安を抱えながら始まった調査だったが、「今のように、ピンポンって押してもどなたも出ない時代じゃなかったんで、みなさんすぐに開けてくださって、お話をうかがえて…ほとんどのおうちが中に入れてくださって、お茶とお菓子が出て、一番すごいのはお昼も出て。それから『こういうものがあるんだけど、持っていかない?』って言ってくださったりして…」と、各家に眠っている「お宝」の提供を受けることも少なくなかったという。郷土資料館に置く場所がなく、そのすべていただくことはできなかったが、「一番、大きなものは、根っこ-桐の根っこだったと思うんですけど-銅の付いている火鉢。それが、今でも資料館でときどき展示されているのを見ると大変うれしくなります」と、人と人との触れあいが楽しかった日々を振り返りつつ、あの時、第一歩を踏み出したことが、今につながっていることを確かめるように微笑んだ。
関連資料:豊島区立郷土資料館だより『かたりべ』No.2(1985年11月15日発行)、同No.20(1990年12月25日発行)