様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
第1回 礒﨑たか子さん (NPO法人「麦の家」理事長)
地域とともに生きていく「かかわる つながる ひろがる」
現在、礒﨑たか子さんは障害者の地域活動支援センターⅢ型(※1)「麦の家」の理事長のほか、「豊島区手をつなぐ親の会(※2)」「豊島区障害者団体連合会(※3)」の会長として日々、八面六臂の活躍をしている。思ったら即実行!という行動派である。
障害を持つ人々が地域で自立して生活していけるように創作・生産活動などの支援を行う「麦の家」は、上池袋の住宅街の一角にある。使い古しの色鉛筆でかたどられたカラフルな魚やペンギンたちがお出迎えするユニークな看板が目印だ。「豊島区手をつなぐ親の会」の前会長から「麦の家」を引き継ぎ、平成20(2008)年に障害者自立支援法(※4)施行に伴いNPO法人化して現在の形になった。
1 専業主婦の日常を一変させた子どもの障害
兄姉たちの葛藤と家族の力
礒﨑さんは、昭和21(1946)年1月31日、品川区鮫洲(さめず)に8人きょうだいの末っ子として誕生した。旧東海道で下町の雰囲気のあるところだったという。北品川から大森海岸までがちょうど学校区域で遊び場所でもあったそうだ。
東京オリンピックで東京が活気づいていた昭和39(1964)年。6歳違いの姉がスモン病という難病と診断され、豊島区で姉夫婦が経営していた飲食店の手伝いをしながら、4つ年上の姉と交代で看病する日々が続いた。難病の姉は、そのまま視覚障害と下半身不随となり、今も施設で生活している。
そうした日々を送る中で訪れた転機は昭和42(1967)年、21歳の時だった。1つ年下の男性と知り合い、そして結婚話へと進んだ。男性の仲間の父親が、たまたま「この店なら安心だから」と連れてきたのが〝ご縁〟となったのだ。いざ結婚となると、「まだ若すぎるのでは」と周囲の反対もあったものの、夫の実家の家業である印刷業の手伝い、そして家事をこなしていく。3人の子ども(長男・長女・次女)にも恵まれ、仕事、家事、育児と大忙しの日々だったが、何不自由ない結婚生活だった。
昭和50(1975)年、次女が2歳半になった時に化膿性髄膜炎を発病した。突然のことだった。まだ幼い娘さんが、小さい手でおでこをギュッと押さえながら「お母さん、ここが痛い!痛い!」と言う。単なる風邪かな?と近所のかかりつけの医院へ行き診察を受けた。しかし、そこでは痛みの原因は全く分からず。医師が、レントゲンを撮ろうとしたその時だった。ガッと娘さんが白目をむいた。その異変に「これは違う!」と、緊急で日本大学医学部附属板橋病院へ搬送した。化膿性髄膜炎と診断された。脳室に菌が入り激しい痛みと高熱が出たのだ。その後遺症で半身不随の障害が残った娘さんを抱え、礒﨑さんの生活は一変する。
娘さんにかかりっきりの生活は兄姉たちにも影響した。長男は妹の病気を十分に理解できたが、次女と年子の長女にとっては「なぜ私の遠足についてきてくれなかったの?」、「PTAになんでお母さんは出てこないの?」といつも寂しい気持ちと複雑な葛藤があったようだ。「小学校から中学校入学まではなかなか大変な時期だった」そうで、下の娘さんをなるべく人に預けたりしながら保護者会に行くよう努めた。年月が経った今、長男も長女も自立してそれぞれの家庭を持っている。そして、その連れ合いたちも礒﨑さんの家庭の事情をよく理解してくれているという。
「生まれつき障害があったわけではなく、それまではいろんなことができていたのが、いきなり生まれたての赤ん坊のようになったわけですから、本当に、どうしていいかわからなかった」と、礒﨑さん自身も現実をなかなか受け入れられず、家族それぞれに葛藤を抱えた日々を振り返りつつ「誰でも心を穏やかにするには時間がかかりますよね。私はもともとこういう性格だから早かったのかもしれませんけど。ぱっと忘れるタチですから(笑)。でも、正直言うと、心の奥底ではいつも、すごく考えています。自分がいなくなったときに上の兄姉2人が、どこまでやってくれるのかなと…半分は『いいよ』と言いつつも、半分は期待しているところがあります」と、親としての本音を覗かせた。