様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
3 PTA活動から「親の会」を手伝う
障害を理解してもらうためには話すこと
娘さんが養護学校に入ってからは、PTA活動や勉強会に参加するようになった。そして、そうした活動を通して様々な会との交流も生まれていった。そうした中、平成3(1991)年、娘さんが高等部を卒業後に、「豊島区手をつなぐ親の会」の会長から、手伝ってほしいと言われたのが、現在の活動に関わるきっかけとなった。
会長さんは自宅を開放して作業所にしていた。団体にうまく入ることが出来ない障害者の方々のため、箸入れ作業と、区立の障害者施設の清掃作業を請け負っていた。それを手伝うようになってから、役員として活動するようになったという。自宅を開放していたものの、小規模作業所(※8)として豊島区から補助金を受けるために移転。その後、「麦の家作業所」として現在の場所に落ち着いた。ここも、もともとは障害者の家族の方が所有していた家で、今はオーナーが代わっているが理解のある方で、そのまま借りているそうだ。平成20(2008)年に障害者自立支援法の改正により、「地域生活支援センターⅢ型」としての法人化が必要となり、特定非営利活動法人(NPO)「麦の家」を設立、「親の会」から独立した。
当時は、障害児の親が病気になり、預ける場合は東京都の施設に行くしかなかった。「親の会」と「豊島区幸せを進める会 」のメンバーは、区内に緊急一時保護施設と親亡き後の施設を求めて積極的に活動をした。活動のおかげで緊急一時の場所として池袋1丁目の「長汐病院(※9)」が4階に一部屋を作ってくれたという。保護者の疾病、冠婚葬祭等の時に利用することができた。家政婦さんもつけてくれた。「娘もまた、主人が癌になり、私が付き添うことになった時に、主人が亡くなるまでの9か月間、緊急一時として預かってもらえて本当に助かった」と言う。
その後、西池袋に区立福祉ホームさくらんぼ(※10)が出来たため長汐病院での緊急一時保護は終了した。「さくらんぼ」でも、親亡き後の対策としての長期自立訓練(3年間)のほか、短期訓練(レスパイト含む)や緊急一時保護を行っていた。「私の怪我や兄姉の学校行事の時などには安心して利用させてもらった」と言う。
重度の娘さんのために「さくらんぼ」の利用を勧めてくれたのが、福祉課の職員だった。「役所というところは、個人で行ってもダメだと思っていた」と言う礒﨑さんが、それまでの孤独との闘いの中で親身になって考えてくれる職員と出会うことでさらに一歩進むのである。
「本当に、泣きもしました。職員の方も泣きますし、お互いにぶつかって、何が一番困っているか聞いてくれたのがよかった。障害児を抱えてない人にしてみれば、日常生活そのものがわからないから、事細かに言わないとわからない。それを伝えていくのがとても難しい。でも伝えていかなくてはいけないというのがありますね」と語るように、「伝える」という行為を重ねていく中で、礒﨑さんの周りに様々な人とのつながりが広がっていった。