様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
6 地域でみんなで生きていく
つながれば枝はどんどん広がっていく
平成20(2008)年、「麦の家」のNPO法人化と同時期に、娘さんが「いけぶくろ茜の里」へ入所し、礒﨑さんは「麦の家」の活動に専念できるようになった。
そんなある日、区民ひろば(※18)に集まっている人たちが地域を歩いていた際に、「何をしているかわからない。もしかしたらちょっと怖いところかも……」と不安に思われ、訪ねてきたという。以前は小規模作業所の看板を出していたのだが、法人化の際に外したままになっていたのだ。それならば、看板を作ったらいいのではないかと提案をしてくれ、社会福祉協議会(※19)で色鉛筆を集め、「じゃあ、みんなで作ろうか」という話になった。こうして、「麦の家」のトレードマークである手作り看板が誕生し、現在のもので2枚目。そろそろ作り直そうかと話しているという。
これをきっかけに、CSW(コミュニティ・ソーシャルワーカー)が間に入り、地域住民との交流会「麦の家やってみる会(※20)~地域でみんなと生きてゆく~」が始まった。月1回のペースだが、夏は流しそうめん、お正月には福笑いと、その折々にやってみようと思いついたことを一緒に楽しんでいる。CSWには、他にもさまざまなところとつないでもらったという。バスハイクで東武ワールドスクエアに行った時には、事前にいろいろ調べるために上池袋図書館に行って図書館のスタッフさんに協力して頂き館長さんに「いつでも自由に使ってください」と声もかけて頂き「麦の家」の製品も宣伝してくれたそうだ。
礒﨑さんの方も、「どこかでつないでおかないとね」と、地域の防災訓練があれば、車椅子の扱い方や障害者への声のかけ方の講習など、頼まれれば毎回、行っているという。「顔だけでも覚えてもらって、あの人こんなこと言っていたなって思ってくれればいいかな」と。
そうした活動レポートのタイトルは「地域で学びあい、支えあう」――地域がつながっていける場所としての「麦の家」でありたいという礒﨑さんの想いが込められている。
障害を持つ子どもの親として直面する様々な問題に、最初はひとり無我夢中で、やがて様々な人とつながることによって突破してきた礒﨑さん。そんな礒﨑さんだからこそ、同じような状況に直面している親たちに一番言いたいことは、「1人で考え込まないで」ということだという。
「どんなに些細なことでも、どこかにつなげれば、その先に枝がどんどん広がっていく。それを掴まえてほしい」と礒﨑さん。
「いろんな人と接触する。講演会とか、勉強会とかにも、どんどん出席してみる。人の話を聞くだけでも違うし、体験を聞くことでも違ってくる。人の話を聞くことって、感動だらけですよね」という、礒﨑さん自らの体験こそが、聞く人に感動と勇気を与えるに違いない。
根岸豊さん
礒﨑さんの子育の時代は、社会で障がい者をサポートする制度が整備されていなかった。そんな時代に、礒﨑さんは娘さんを育て守るために、自ら都庁や区役所へ粘り強い働きかけを続けてきた。その過程でともに歩める人達との出会いがあったようだ。さらに孤軍奮闘するだけではなく、同じ境遇にある親たちと連携、さらにPTA・近隣の人たちの理解と協力を得て、いまの「麦の家」がある。これからも「麦の家」を維持・継続も容易ではないだろう。しかし楽天的?な礒﨑さんにはこれからも多くの出会いがあるだろう。
吉田いち子さん
第一印象は物静かで、一言一言かみしめるようにお話しされる礒﨑たか子さん。しかし、インタビューでこれまでの行動・活動はまるで一編のドラマを見るようだった。突然のご家族の病気。それがきっかけで生活時間そして意識も大変化していく。踏ん張っての地域での動き。それらはかなりの温度で私に伝わってきた。しなやかな強さ。そして地域への深い愛情と勢い。そんな礒﨑さんにお話しをお聞きし「平成を駆け抜ける女性」というコトバが頭に浮かんだ。