様々なひとが暮らす街。
ひとりひとりの日々の暮らしからそれぞれの物語が紡がれ、街の歴史を織りなしていく…
そんな物語の軌跡を区民インタビュアーがたどります。
4 雑司が谷郷土史の掘り起こし
友の会の活動、さらに女性史編纂事業に関わる中で、自身が住む雑司が谷への思いがますます膨らんでいった小池さんは、同じく雑司が谷を拠点に活動する郷土史研究家の矢島勝昭さんと一緒に雑司が谷郷土史の掘り起こしに取り組んだ。
「矢島さんが描いた雑司が谷いろはかるたを冊子にして、『絵本雑司が谷いろはかるた』(平成17年発行)として出すために、雑司が谷ルネサンスの会というのを作ったんです…」と、区民の様々な街づくり活動を支援する助成金を得るために会を作ったというが、「助成金がなくなったので後は自主的に。原本があるので、再版を私がしています。500円で販売して、卸値が450円なのかな。1冊売れると50円もうかるんだけど、ただで配ったりもするから、元が取れなくてちょっと持ち出して…」と、自腹で再販を重ねている。
矢島さんとは雑司が谷の郷土玩具の復元にも取り組んだ。江戸時代、安産・子育(こやす)の神様として人々の崇敬を集めた鬼子母神の参道には土産店や料理屋が立ち並び、多くの参詣客で賑わったという。そんな参詣土産の定番だった郷土玩具の風車は喜多川歌麿の浮世絵にも描かれている。今では幻となった郷土玩具の中でも特に人気だったいう風車と角兵衛獅子を試行錯誤の末に復元した矢島さんを中心に、もっと地域に広めていこうと小池さんら郷土史研究メンバーが集まった。「原さんと一緒に、矢島先生から勉強させていただいて…最初は、高田小学校(平成13年閉校)の3年生に教室で教えていたんですけど、それが終わっちゃったので、今は作るだけになっていますけど」という紙と藁で作られた愛らしい玩具は今も「雑司が谷案内処」に並んでいる。
そんな取り組みを長年続けている小池さんに、雑司が谷の地域史で一番アピールしたいことは何か尋ねた。「やっぱり鬼子母神堂さんでしょうね。国の重要文化財にもなって」と、区内最古の木造建築である鬼子母神堂を真っ先にあげた。平成28(2016)年7月に国の重要文化財の指定を受けた雑司ヶ谷鬼子母神堂(※15)は、清土の地から掘り出された鬼子母神像を祀るお堂で、その本殿は寛文4(1664)年に広島藩主浅野光晟の正室、自昌院の寄進により建立され、細部に安芸地方の社寺建築の特徴を示している。「大改修の時に、広島から大工さんが来て建てたっていうのが分かったんです」と、その来歴にまつわるエピソードを語る小池さんにとっても、雑司が谷のシンボルとも言える鬼子母神堂は心の拠り所になっているにちがいない。
その鬼子母神の参道一帯からは、参詣客で賑わった当時を偲ばせる遺物が数多く発掘されている。(※16)「(『蝶屋』という料理屋があった場所から)蝶に矢の紋が描かれたお皿が出たり、同じ湯呑がたくさん出たところは、お料理屋さんだったんだろうと思います。あとは、池の下から職人さんの足跡が見つかったり、富士山の灰(富士山が噴火した際の火山灰の地層)が出てきたり…」と、発掘調査を担う「としま遺跡調査会」の理事も務める小池さんにとって、遺跡調査は文字通り郷土史の掘り起こしだ。「(参道のつきあたりに)日本家屋のお料理屋さんのようなすごいおうちが建っていたんです。絹の会社(日本シルク)のおじいちゃまのおうちで、その隣にも2軒、そのうちの1軒は地方から移築して来た、柱がすごく大きなおうちでした」と、現在はマンションに建てかえられている旧家に文化財の調査が入った当時、郷土資料館の建設用地として区が買い取る話があがったことがあるという。「本当に残念なんですけどね、あそこが郷土資料館になればよかったんですけど。お金がなくて買ってもらえなかったみたいです」そういって残念がる小池さんにとって、社会参加の第一歩を踏み出した郷土資料館は、自分が自分でいられる場所のひとつなのかもしれない。
関連資料:H280725プレスリリース
詳細:鬼子母神堂ホームページ